しばらく前、次の文章を書きました。以下は、その続きです。
表現の自由が公共の言論空間において話題になるのは、不特定多数の目にとまる可能性のある場所に画像が掲示されるときであるのが普通です。そして、大抵の場合、人々の意見が分かれるのは、この画像の内容が「性的」であるかどうかという点であるように思われます。
私は、上の文章において、すべての「自由」が「責任」と一体のものであり、絶対の自由というものはありえないこと、したがって、不特定多数の目にとまる可能性のある作品に関するかぎり、「表現の自由」が「公共の福祉を促進する責任」によって必ず制限されなければならないことを説明しました。表現の自由の限界は、公共の福祉との関係において個別に判定されるべきものなのです。
そして、表現の自由がこのように制約されるべきであるかぎり、個別の画像の掲示の是非は、社会にとっての「有害」「無害」という観点からのみ語られなければならないことになります。というのも、何らかの画像の掲示を認めるとしても、あるいは、これを認めないとしても、その根拠を遡るなら、最終的に「有害」と「無害」の対立に辿りつく他はないからです。つまり、形式的には、表現の自由をめぐるすべての議論は、「有害だから制限すべき」「無害だから問題ない」というただ2つの意見へと収束します。
この問題について何を語り、何を根拠として挙げるとしても、すべては「有害だから制限すべき」「無害だから問題ない」のうちいずれか一方の言い換えにすぎないのです。この対立に回収されない論拠にもとづく主張はすべて、ナンセンスとして斥けて差し支えありません。