※この文章は、「ふたたび『表現の自由』について(その1)」の続きです。
みずからの立場を説明するのに、たとえば「性的である/性的ではない」などの曖昧な言葉を用いることは、事柄の真相を覆い隠すことにしかなりません。「性的である」ことを根拠に特定の画像を公共の空間から撤去することを求める人々は、「性的である」ことを悪と見なしているのでしょう。しかし、この主張は、「それは性的ではない」「性的であることが悪だという発想がおかしい」「『性的』という言葉の使い方がそもそも間違っている」などの反論をただちに惹き起こすばかりであり、異なる意見の持ち主——つまり、「画像には何ら問題がないから撤去すべきではない」と考える人々——の説得には何の効果もありません。表現の自由の制限を本当に望むのなら、そして、意見を異にする人々の説得を望むのなら、「性的である」「性的ではない」という言葉の使用を避け、問題の作品が「有害」であることを示さなければならないのです。
実際、「このような画像は公共の空間に掲示されるべきではない」ことを主張する人々は、これが社会にとって有害であると判断しています。そうであるなら、(害悪を与える可能性ではなく、)特定の画像の掲示が社会に対し具体的にこれまで実際にどのような害悪を与えてきたのか、その因果関係を事実にもとづいて明らかにする他はありません。(「私には性的に見える」などというのは、曖昧な感想にすぎません。)
ところで、私は、このような画像を目にとめることで「恐怖」や「不快」を感じる女性が一定数——多数派であるかどうかはわかりません——いるに違いないと予想しています。また、公共の空間に掲示された画像の場合、これが予告なしに視界に入ることは、誰にとっても防ぎようがありません。この点は、表現の自由をめぐる立場がどのようなものであるとしても、承知しておく必要があるように思われます。
しかし、特定のタイプの作品に不快や恐怖を覚える人々がそれなりにいるからと言って、万人に影響を与えるような形で——つまり制度的に——制限することが好ましいわけではありません。
たとえば、小学校、中学校などで深刻ないじめを受けてきた大人の中には、集団で登校、下校する小学生や中学生を路上で見かけると「フラッシュバック」を起こす人が少なくありません。外を歩いていて、通りの向こうから小学生や中学生の集団が歩いてくるのが見えると、すれ違わないよう道を変えてしまう人すらいます。