Home やや知的なこと ふたたび「表現の自由」について(その3)

ふたたび「表現の自由」について(その3)

by 清水真木

※この文章は、「ふたたび『表現の自由』について(その1)」および「ふたたび『表現の自由』について(その2)」の続きです。

 これらの人々にとっては、校外を集団で歩く小学生や中学生など、恐怖の対象以外の何ものでもありません。いじめを受けた経験のある人々が「集団での登下校を差し止める」あるいは「遠くからそれとわかるよう、小中学生全員に鈴をつけさせる」などの措置を学校や自治体に要求しても不思議ではないでしょう。

 しかし、実際には、誰もこのような措置を求めません。また、学校や自治体は、たとえこのような措置を求められても、これに応えないはずです。上のような措置によって不便を強いられる関係者の数が途方もない数になり、膨大な予算と手間が必要だからではありません。いじめの経験を受けた人々には気の毒であるとしても、彼ら/彼女らのフラッシュバックのきっかけとなった可能性のある小中学生、つまり、たまたま見かけた小中学生は、彼ら/彼女らを実際にいじめた小中学生ではなく、あくまでも、いじめの加害者の「記号」にすぎないからです。いじめを受けた人々の視界に集団で登下校する小中学生が姿を現したとき、彼ら/彼女らがこのイメージを「いじめを受けた経験」の「記号」として解釈しているだけなのです。社会が全体といて努力しなければならないのが、過去にいじめを受けた人々の視界から「記号」を隠すことではなく、いじめをそれ自体として防止することであるのは明らかです。

 そして、特定の傾向を具えているとされる画像が公共の空間に掲示されるたびに繰り返し姿を現す撤去と制限への要求についてもまた、事情は同じであると私は個人的に考えています。

 すなわち、「過剰に性的」などの理由により「表現の自由」に関連して話題になるような画像を不快に感じる人がいるとするなら、それは、この画像がそれ自体として見る者に直接に害を与えるものだからであるというよりも、むしろ、不快を感じる人々が、過去あるいは現在の実際の不快な経験1 の「記号」としてこれを解釈し、過去の不快な経験を否応なく想起させられているからであると考えるのが自然です2

 したがって、私たちが何らかの対策を講じる必要があるとするなら、それは、不快な経験の「記号」としての画像を視界から隠し、現実の不快な経験を想起させないことではなく、反対に、女性に対し性的な意味における不快感を与えないよう周囲の人間(特に男性)を啓蒙する地道な努力以外ではありえないでしょう。

 「性的である」というのは、事柄の真相を塗りつぶし、合意形成を阻碍するレッテルです。このレッテルの使用を避けることにより、表現の自由をめぐる議論は生産的なものとなるに違いありません。

  1. たとえばセクハラのように、みずからの意に反する形で性的な対象として男性から扱われた経験は、不快な経験に分類することができます。 []
  2. 不快な経験の「記号」であるからではなく、直接に害悪を与えるようなタイプの作品が公共の空間に位置を与えられる場合があります。基礎工事が不十分なせいで倒壊の危険がある石像、子どもが事故を起こす危険のある公園の遊具などがこれに当たります。 []

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