Home やや知的なこと 「表現の自由」について、あるいは、不快なものに向き合う義務について(前篇)

「表現の自由」について、あるいは、不快なものに向き合う義務について(前篇)

by 清水真木

 このブログにおいて、私は、一般に「表現の自由」と呼ばれているもの意義と限界を、これまでに2回、主題的に取り上げました。以下は、これまでの話の続きです。(下に続く)

 みずからの意見を合理的な形で他人に向かって表出する自由は、民主主義の社会に生きるすべての者に与えられるべきものです。立場を異にする者たちのあいだで社会全体の利害に関するオープンな議論が成立するためには、そして、合意形成が実現するためには、ともかくも、考えうるかぎりのすべての意見が手もとに揃えられることが必要だからです。

 もちろん、表現の自由は、無制限のものではありません。私たちは、公共の福祉を促進する責任を引き受けるかぎりにおいて、かつ、このかぎりにおいてのみ、表現の自由を社会から与えられている(=他人から認められている)のであり、自由と一体をなすべき責任の自覚にもとづかぬ「表現」なるものは、有害なものとして公共の空間から排除されなければならないことになります。これは、以前に述べたとおりです1 。言い換えるなら、あらゆるタイプの「表現」は、公共の福祉を促進する意図にもとづいて公共の空間に対して差し出されたものとして受け取られなくてはなりません。この想定は、民主主義の前提となる「お約束」なのです。

 もちろん、このような意味における(責任と一体をなすかぎりにおける)表現の自由は、誰に対しても原則として等しく認められなければなりません。つまり、表現に関するかぎり、私が自分に与えるのと同じ自由を他人にも認めることは、万人に課せられた義務であると言うことができます。

 当然、「私は、表現の自由を私には与えるが、私と意見や立場や好みを異にする者が同じ自由を享受することは認めない」「私の批判は許さない」などとうそぶく者には、公共の言論空間において何かを語る資格はなく、「市民」を自称する資格すらないと考えるのが自然です。(後篇に続く)

  1. なお、一部の左翼活動家は、公共の空間に掲出された特定のタイプの画像を含む広告類が「性的」であることを強く主張し、その排除を要求しています。しかし、私自身は、少なくともこれまでのところ問題になった画像については、これらが公共の空間から排除されなければならないような性質のものであるとは考えていません。これもまた、以前に述べたとおりです。 []

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