※この文章は、「居心地のよい場所を見つけることの不可能について(その1)」の続きです。
私が期待することが許されるのは、私の理想とは多少ズレた場所、しかし、「今よりはましな場所」です。また、私が見つけることができる場所は、私という「ピース」がはめ込まれるのを待つ空白などではなく、適応するのに多少の努力が必要となるような、私よりもサイズが少し小さい——光もあれば影もある——「隙間」であるに違いありません。
社会の内部に身を置くかぎり、私と環境のあいだにはつねに何らかの相互作用が認められます。家族、学校、企業・・・・・・、どのような社会集団も、私がこれに新たに帰属すると、その瞬間から、私の帰属を前提として変化を始めます。私の方もまた、集団の一部として行動を変化させます。
一方の変化が他方の変化を促す相互作用のプロセスにおいて、私は、時間をかけて少しずつ、集団内部の有機的な連関の一部になって行きます。当初は私のサイズに合わなかった隙間が、時間の経過とともに私に馴染んで行く——あるいは、私の方が隙間に馴染んで行く——ことになります。私は、「混じり気のない居心地のよさ」の代わりに、「それなりに居心地よく過ごす知恵」を身につけるのです。
「居心地のよい場所」は、発見されるものではなく、環境との相互作用の中で私が時間をかけて主体的に「作る」ものです。現在の環境に居心地の悪さを感じる人がさしあたり目指すのは、「今よりもましな場所」でなければなりません。これを目がけて脱出するのは現実的な行動です。(また、「今よりもましな場所」の見当がつかないまま、今いる場所から逃げ出すのは危険でもあります。)
しかし、「完全な居心地のよさ」に与ることができる「終の住処」のようなものがどこかにあるはずだ、という幻想は、潔く捨てるべきでしょう1 。これは、いわゆる「自分探し」が陥りやすい罠でもあるように思われます。
- カルトに入信する人の多くは、このような幻想に囚われているように私には思われます。 [↩]