Home 世間話 俗物の記号としての「長財布」について

俗物の記号としての「長財布」について

by 清水真木

 世の中には、さまざまな形状や大きさの財布があります。私自身、これまでの人生において、いくつかの異なるタイプの財布を使ってきました。現在でも使っています。

 今の財布はドイツ製で、素材はヌメ革、小型の折りたたみ式です。同じメーカーの鞄と一緒に20年近く前に購入し、それ以来、使い続けています。ところどころすり切れていますが、穴が空くまでは使い続けるつもりです。

 ところで、何年か前から、私の目の届くところで誰かが財布を取り出すとき、その財布が一般に「長財布」と呼ばれるものである確率が以前よりも高くなったような気がしています。

 ただ、私自身は、これまでいくつかの財布を使ってきたとは言っても、長財布だけは使ったことがありません。使いたいと思ったこともありません。強い抵抗感があるからです。

 私は、財布に限らず、大型のもの一般をあまり好みません。スマホも、傘も、鞄も、手帳も、つねに小さめのものを選びます。私が長財布を忌避するのは、何よりもまず、大型だからです。

 しかし、サイズ以上に問題なのは、長財布がただ大きく目立つばかりではなく、何よりもまず、その本来の用途が「カネを収めるもの」である点です。私の理解では、人目を惹くようなサイズ(あるいは表面積)の財布を所持し、かつ、これを他人に見えるところで懐や鞄から取り出すという行動は、本人の自覚とは関係なく、事実上、カネを他人に見せびらかすことを意味します。しかし、これは、誰が考えても明らかなように、決して好ましくないことであり、下品以外の何ものでもありません。

 たしかに、誰にとっても、カネは非常に大切なものです。私は、カネには途方もない価値があると信じています。みっともないのは、カネを収めるという用途が明らかであるような大型の容器(=長財布)を携帯し、かつ、これを他人の前で必要に応じて懐や鞄から取り出すことをためらわない点です。これは、(自分の「あり方」ではなく、自分の「所有物」によって自分を目出させようとするかぎりにおいて、)長財布を所持する者が言葉の本来の意味における「俗物」(philistine) であること、品位、格調、知性、洗練、そして、教養とは無縁の存在であることを見る者に予想させます。

 私の目には、長財布を懐や鞄からためらうことなく取り出すのは、「すぐれた点を持たない」「真似しない方がよい」人間であることの証拠と映ります。私にとり、長財布というのは、俗物の記号です。当然、各人の趣味とは関係なく、財布は小さい方がつねに好ましく、所持しないことが理想となります。

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