何らかの「哲学書」について、感動のあまり、「読んだ」「わかった」「面白かった」などと言う人は少なくありません。それどころか、特定の哲学者の著作を読むよう他人に勧める人すらいます。
もちろん、「『純粋理性批判』を読んだ」「『死にいたる病』がよくわかった」「『哲学探究』は面白い」「『存在と無』を読むことをすすめます」などという文を作ることがそれ自体として悪いわけではありません。これらの著作を本当に読み、理解し、面白いと感じたのなら、これを率直に表現することに何の問題もありません
ただ、私は、哲学史に名を遺すような重要な著作について、「わかる」と軽々しく言うことを控えることにしています。「読んだ」という報告すら、できることなら勘弁してもらいたいと思っています。職業的な哲学者の多くは、古典的な著作に対し、私と同じような態度をとるに違いありません。
そもそも、古典的な哲学書が「わかる」とは何を意味するのか。
哲学に何らかの関心があり、かつ、哲学史について最低限の知識を持つ平均的な読者にとり、古典的な哲学のテクストを「理解する」とは、当のテクストによって著者が提示することを試みた概念装置を——程度の差はあるものの——大雑把に捉えたことを意味するはずです。
哲学のテクストの「面白さ」もまた、文章を読み進めるうちに概念装置の全貌が明晰かつ判明に姿を現すことにあるに違いありません。哲学のテクストが何らかの感動を与えたり、深く考えさせたりすることがあるとするなら、これもまた、概念装置、あるいは、その語り方のおかげであるに違いありません。
たしかに、哲学のテクストには、このレベルの理解の可能性があり、このレベルの面白さがあります。
しかし、「わかる」「面白い」などの感想を職業的な哲学者から聞く機会は必ずしも多くはないはずです。歴史に名を遺すほどの哲学書が、それほど簡単に「わかる」はずがない、況して、その本当の「面白さ」を把握できるはずがないと考えるからです。