職業的な哲学者が何らかの哲学的なテクストについて「わかる」と言うとき、その理解には、4つの段階を大雑把に区別することができるように思われます。
まず、もっとも低級な理解は、上に述べた平均的な読者と同じレベルにおける「理解」です。しかし、職業的な哲学者がこの意味において「わかる」と言うのは、一般には古典と見なされていないテクストに関する場合に限られます。
次の段階の「わかる」は、テクストの全体を一貫した形でパラフレーズすることができることを意味します。これは、「テクストを自分なりに解釈することができるレベル」と言うこともできます。このレベルの理解に到達すると、テクストを読みながら、これを自分の言葉で逐次解説し注解することができるようになります。
そして、このような理解が実現すると、その地平には、歴史的な奥行きのもとでの「理解」の可能性が姿を現します。この段階では、同時代の他の哲学者たちと比較したり、他の研究者の解釈を検討したり、著者が自明の前提としている歴史的背景などを考慮しながら、テクストのオリジナルな点を明らかにすることにより、自分の理解を修正することになります。
そして、最終的には、すみずみまで「わかる」こと、つまり、テクストの任意の文について、その意味を自分の言葉で、しかし、著者になり代わって明瞭に述べることができることを意味します。このレベルに辿りついた読者は、著者と一体になっているはずです。つまり、著者が語ったことを自分の言葉で説明することができるばかりではなく、著者が語らなかった問題についてもまた、著者に代わって語ることができるに違いありません。
もちろん、このような意味における理解には、途方もない時間が必要となります。職業的な哲学者が哲学的なテクストについて「わかった」と気軽に言わないとするなら、それは、「理解」というものを厳格に捉えているからであり、その最終段階にみずからがまだ辿りついていないことを自覚しているからであると考えるのが自然です。