普段の生活において行動や発言に関し何かを選択するとき、私たちが考慮に入れるものの1つに、周囲の反応、正確には、周囲の反応をめぐる予測があります。「周囲」に含まれる範囲は、状況によってまちまちです。私にとって何らかの意味において大切な特定の誰かに喜んでもらうために何かを語ったり、何かを行ったりすることもあれば、自分が帰属する何百人もの集団の多数派の反応を予測しながら何かを選びとることもあるでしょう。
実際、「これをしたら喜んでくれる人がいる」というのは、私たちが自分の言動を決めるときの動機として、もっとも強力なものであり、この予測に逆らって何かを選びることは困難です。
「あなたにとって大切な誰かに喜んでもらえるなら、どのようなことでもする覚悟はあるか」と問われ、この問いに否定的に答えることができる者、そして、この強力な動機によって判断を歪められない——この意味において完全に「公正」な——者がいるとすれば、それは、「大切な誰か」を持たず、完全に孤立した者であるか、あるいは神を措いて他には考えられません。(人間以外の動物の中にも、問いに「答える」ことができるなら、否と答えるものがあるかも知れません。)
この点は、多くの人が経験的、直観的にわかることであるばかりではありません。友好的な——つまり、言葉のもっとも広い意味における「友情」にもとづく——コミュニケーションが人間の社会性の基礎であるという、遅くともアリストテレス以来2500年近くにわたり哲学者たちのあいだで共有されてきた洞察もまた、この点をア・プリオリな形で説明するに違いありません。(友人が「友人」(philos) と呼ばれるのは、これが「大切なもの」(philon) を共有するかぎりにおける「大切な存在」(philos) だからです。)
とはいえ、私にとって大切な誰かに喜んでもらうために何かを語ったり何かを行ったりする場面では、これ以外の動機が何もないことが少なくありません。もちろん、言動の内容がそれ自体として価値のあるものであり、第三者に直接の損害を与えるような性質のものでなければ、何をするのも当人の自由であると考えることはできます1 。
もちろん、「私にとって大切な誰かが喜んでくれる」と予想するときにその都度あらかじめ想定されている「喜ぶ」という観念は複合的なものであり、また、その内容は、人により、状況により、決して同じではありえません。私の方が予想を誤ることもあります。好くなくとも、「この発言/行動により私が大切にする誰かが喜ぶ」という予想は、当の言動が社会的に正当であること、たとえば、第三者に直接に損害を与える危険のないことを必ずしも教えるものではありません2 。実際、たとえば「バカッター」と呼ばれる者たちによって惹き起こされた「バイトテロ」の多くは、周囲に喜んでもらうことを目的とするもの、しかし、正真正銘の愚行です。「私にとって大切な誰かに喜んでもらう」が動機としていかに強力であり、これが甘い罠であることをバイトテロ以上に雄弁に物語るものはないように思われます。
何かを決めるとき、これによって喜んでくれるかも知れない他人の顔を1つも思い浮かべることができないとするなら、それは間違いなく不幸です。しかし、周囲の反応に引きずられて判断を誤り、他人に損害を与えるるなら、これもまた、一種の不幸であるに違いありません。
- 大抵の場合、いわゆる「バカップル」と呼ばれる人々の言動は、これに当たります。 [↩]
- 喜んでもらいたいと私が思う相手が有徳な人物であり、また、私の方がその人物の性向を十分に把握しているなら、「他人に損害を与えるようなふるまいは忌避すべし」という指令を当事者が共有しているはずですから、何ら問題は発生しないはずです。 [↩]