※この文章は、「神は笑うか(前篇)」の続きです。
実際、たとえば、キリスト教の神学を中心とする西欧の知的世界では、神は「完全な存在者」として規定されることが少なくありません。(神の存在証明のうち、存在論的証明の前提となる神の規定です。スピノザの想定する「神」もまた、基本的に同じです。)そして、神が完全な存在者であるなら、この神は、決して笑わないでしょう。というよりも、神は、感情一般を持たないはずです。というのも、神が完全であるとは、全知全能ということですから、神にとっては、あらゆる瞬間においてすべてことが明らかでなければなりません。
たとえば、神は、何かを疑問に思うことはありません。なぜなら、すべての問いにおいて、問いが問われるのと答えがわかるのがつねに同時だからです。神のもとではその都度あらかじめすべてが明らかである以上、疑い、驚き、失望、悲しい、怒り、喜びが心に浮かぶこともありえません。当然、神が笑うはずもありません。
神は、万物をつねに永遠の相のもとに観照します。永遠であるとは、時間的な奥行きを持たないことを意味します。言い換えるなら、神の「生」には時間の契機が欠けているのです。神は、あらゆる瞬間において完全ですから、学習したり成長したりすることはありません。私たちが日常生活において体験する感情はすべて、(すべての瞬間にすべてが明らかであるわけではなく、)時間の経過とともに事柄が漸次的に明らかになることを前提としています。時間というのは、人間の人間に固有のあり方の不可欠の基盤であり、人間が泣いたり、笑ったり、怒ったり、悲しんだり、驚いたりすることができるのも、神の生とは異なり、人間の認識が「時間」という名の奥行きを具えているからなのです。
なお、ついでに付け加えるなら、神であるかぎりの神は、みずから笑うことがないばかりではなく、笑いの対象となることもないでしょう。なぜなら、完全無欠な存在には、笑いのトリガーとなりうる「欠落」や「ぎこちなさ」や「偏り」や「場違い」に属する要素が何も認められないからです。この意味において、神というのは、退屈な存在であると言うことができます。