現在の政治的な言説、特に左派政党が提案する政策、あるいは、左翼的な言論に触れるたびに違和感を覚えることが1つあります。すなわち、これらの言説は、特定の価値評への同意を全国民に対して求めるものであるように感じられるのです。
社会を形作る人々のものの見方は、かぎりなく多様です。したがって、どのような政治的な言説についても、「前提となる価値評価に同意できない」という理由で反対する者が必ず姿を現します。しかし、政治的な言説の場合、反対意見があまりにも多ければ、現実に影響を与えることはできません。
実際、与党あるいは右派が実現してきた政策の多くは、平均的な日本人にとって受け容れ可能な常識的、平均的なものの見方——たとえば、外部の状況の変化に対する合理的な反応として——の帰結であるか、あるいは、少なくとも、常識の帰結としての外見を(ときには無理に)与えられて国民に差し出されてきたものであるはずです。国会の各種委員会での審議における政府側からの発言がおおむね退屈なのはそのためです。
これに対し、左派政党が掲げる政策の多く、あるいは、左翼的な言論を眺めるたびに、私は、特定の価値評価が押しつけられていることを強く感じます。この考え方は正しいのだから、国民は、この見方に同意すべきであり、この見方を前提とする政策を受け容れるべきであると繰り返し耳もとで怒鳴られているような気がするのです。「平均的な日本人がこれに同意するかどうか」「広く受け容れられるか」、あるいは、そもそも「政策として破綻しないか」などの観点は、このような言説では顧慮されていないように見えます。
むしろ、左派の政治的な言説は、「正しいがゆえに平均的な日本人が同意すべき」もの、「同意できないなら、学習してものの見方を更めるべき」ものとして差し出されているように私には思われます。つまり、左派にとって、国民に向かって何かを語ったり、政策を提案したりすること、つまり、政治とは、基本的に、国民に対する「しつけ」の一部と見なされていることになります。特に、エネルギーや教育は、国民を特定のイデオロギーに向けて「しつける」政策が目立つ分野であるように思われます。
去年の12月、防衛費の増額に関連して、その財源を増税によって賄うか、それとも、国債を発行するか、ということが問題になりました。このとき、自由民主党所属のある国会議員が、増税に賛成し、
命をかけて国を守る人を税金で支えるというメッセージを出すのが政治の仕事だ。国民国家の基本は防衛を税金で賄うことではないか。自衛隊を税金で支えず、国債で(支える)とは失礼に過ぎると思う
自民・猪口氏 防衛増税に賛意「国債は失礼に過ぎる」
と語ったことが報道され、大問題になりました。
私は、防衛費の増額には賛成です。また、財源を賄うための増税が選択肢の1つとなることに、特に違和感はありません。ただ、「国債は失礼」というのは、価値評価の押しつけであり、私は、この点には強い抵抗を感じました。このような、国民を「しつける」タイプの言説は、少なくとも「自民党的」ではなく、むしろ、典型的に「左派的」なものだからです。この「国債は失礼」という発言に否定的な反応を示した保守派の政治家や評論家は少なくなかったはずですが、そのもっとも大きな理由は、国民を下に観た「しつけ」が保守的な政治の文脈に馴染まないものであったからであるに違いありません。