私は、現在のマスコミを言い表すのに「マスゴミ」などという言葉を使う人々の発言を信用しないことにしています。(もちろん、どのような意図にもとづいて、どのような範囲でこの言葉が使われるかによって評価は異なりますが、)日刊紙とテレビを中心として形作られている社会的な装置の全体を、特にその報道機関としての役割に注目して「マスゴミ」と無邪気に表現する人々は——失礼ながら——頭が悪いのではないか思います。
少なくとも、私は、自分の言葉として「マスゴミ」という名詞を用いたことは一度もありません。使うべきではないとも考えています。
「マスゴミ」という言葉を使い、「マスゴミなど要らない」などとうそぶくことは、天に唾するのと同じです。というのも、現在のマスコミが「マスゴミ」であるという了解を前提として作り上げられた言論は、基本的にすべて、このような言論が「マスゴミ」と名づける報道機関が発行する印刷物、あるいは、テレビやネットで公開する情報に全面的に寄生しているものだからです。すべての「マスゴミ」が一掃されてしまったら、これと同時に、「マスゴミ」を批判しつつ、みずからがこれに代わるものであるかのようにふるまってきた言論もまた消去されざるをえないでしょう。
たしかに、新聞が報道する事柄は、報道の仕方、含まれる情報、論評に偏りが認められます。事実の解釈が間違っていることもあります。だから、情報の理解に万全を期すなら、複数の媒体に当たって内容を比較することが大切になります。
それでも、少なくとも新聞が事実として明記したことはすべて、「一応は正しい」こと、さしあたり事実と見なして差し支えない情報として流通します。言い換えるなら、ある出来事があった、誰かが何かを発言した、というような報道内容に関し、読者自身があらためて「裏を取る」手間は原則として不要であると一般に考えられているのです。事実であることが確証された事柄を公衆に伝える点において、現在でもなお、マスコミには特別な役割が与えられ、また、期待されていると言うことができます。だからこそ、報道機関を「マスゴミ」などと呼ぶ言論すら、「マスゴミ」の基盤をなすはずの新聞を主な情報源と見なしてこれに全面的に依存しているわけです。
「マスゴミなど要らない」という呪文が現実のものとなるなら、それは、「自分の足を銃で撃つ」(shoot oneself in the foot) のと同じ事態を惹き起こすことになるでしょう。