諸分野の単なる「野合」になる危険
※この文章は、「『学際性』の逆説について(その1)」の続きです。
たしかに、自然科学と社会科学の特定の分野に関するかぎり、「学際的」な試みは、広い範囲においてそれなりの成果産み出してきたはずです。このような成果を適切に評価する資格は私にはありませんが、それでも、これらの成果が公共の福祉を短期的に促進したことは間違いありません1 。
しかし、人文科学に関するかぎり、その外部の学問分野とのあいだには、意味のある「交流」「連携」「統合」「融合」などは成立しないように思われます。人文科学において価値ある「学際性」が見出されるとするなら、それは、人文科学を構成する伝統的な諸分野のあいだにおいてのみであり、私の知るかぎりでは、科学史――この100年間で飛躍的に発展した分野です――をほぼ唯一の例外として、人文科学の外部(自然科学および社会科学)の諸分野との「交流」「連携」「統合」「融合」などは、のちに残る目立った成果――つまり、ディシプリンのスクラップ・アンド・ビルドをなし遂げたと誰もが認められるほどの成果――を何も産み出してきませんでした。
そもそも、誰が考えてもわかるように、たがいに何の関係もない複数の分野の研究者たちを一箇所に集めても、それだけで「学際的」な研究が生まれるはずはありません。たとえば、美術史の研究者と分子生物学の研究者が同じ1つのテーブルについても、平凡な世間話以上の何かが生まれることなどないでしょう。彼ら/彼女らのあいだには、共通の関心も、共通の知識の枠組もないからです。たとえ彼ら/彼女らが1つのチームとなっても、ここから生まれるのは「美術史と分子生物学」の研究成果にすぎないはずです。これは、異なるディシプリンの研究成果をそれらしく貼り合わせただけのもの、単なる「野合」であり、いかなる意味でも学際的な研究ではありません。
むしろ、美術史にとり意味のある学際的な試みが成立するなら、その相手となりうるのは、美学、宗教学、人類学、言語学、考古学など、美術史から見て「親戚」に当たる隣接する諸分野です。実際、上記の諸分野では、隣接する領域へのたがいの越境は、これらの分野すべての研究を顕著な規模で更新してきました。人文科学の場合、しかし、このような拡張と越境は、日々の研究の延長上において、ミクロなレベルで――いわば「風まかせ」で――ごく自然に発生するものであり、そこには、「学問の細分化の阻止」や「学際性」への自覚など見出されないのが普通です2 。自然科学や社会科学でも、研究領域のこのような自然な拡張と越境は、つねにいたるところで見出される、人間の本性に由来する平凡な現象であるはずであり、「学問の細分化」なるものを克服するのなら、その手段となるのは、「学際性」や「交流」「連携」「融合」「統合」などにこだわることであるよりも、むしろ、研究者自身の自律的で自発的な関心を尊重することであるように私には思われるのです。(続く)
- ただ、厳密に言うなら、ここには原因と結果の取り違えが認められます。すなわち、異なる学問分野の連携や交流などの成果が公共の福祉を促進したのではなく、反対に、公共の福祉を目に見える形で促進したからこそ、連携や交流を「成果」として世間から認めてもらうことができた、というのが真相でしょう。 [↩]
- 自然科学や社会科学とは異なり、人文科学は全体として、緩やかに「地続き」であり、この点で、各分野のあいだの敷居は相対的に低いように思われます。 [↩]