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哲学の民主化について

by 清水真木

「テクストを読むこと」しての哲学

 西洋における哲学の長い伝統の中で、哲学することは、哲学者の手になる古典的な作品を精密に読む作業と一体のものでした。古代から現代までの哲学史は、テクストを読みながら、その正確な理解を目指し、あるいは、正確な理解を手がかりとして考える者たちによって形作られてきたと言うことができます。

 哲学する者たちは、目の前に置かれたテクストが提示する問題をその筆者と——他人が考えたことをみずから引き受けるのは、誰にとっても決して容易なことではありませんが——対話しながら共有し、筆者の思索を追体験しながら、筆者の到達点を超えて前進することを繰り返してきました。哲学の伝統は、このような作業によって形作られてきたものです。

 哲学するとは、ギリシャ以来の哲学の伝統の内部において思索することに他なりません。そして、哲学のテクストを読みながら考えること、いわば哲学者のテクストに「寄生」して考えることこそ、哲学の伝統に参入するための唯一の手段なのです1

 実際、世界のどの大学や大学院でも、哲学の専門的な教育というものは、必ず古典的なテクストの講読に始まります。専門分野としての哲学を身につけるためには、いや、そもそも、哲学の伝統に参入するためには、何を措いてもまずテクストの精密な読解の訓練が必須だからです。この訓練を省略して先に進むことは絶対に不可能であるというのは哲学の世界の常識です。

巨人の肩の上に立つ

 古典的なテクストの解釈が哲学の実質であるというのは、現代に固有の事情ではありません。むしろ、遅くともヘレニズム以降の地中海世界で哲学者たちが開いた各種の学校2 において、そして、特に中世における大学、あるいは修道院に付属する学校において——現代とは異なり当時の文化の本質が口承であり、教育面でも口頭での討論が重視されていたにもかかわらず——プラトンやアリストテレスを中心とする重要なテクスト、あるいは、(スコラ哲学の時代にさかんに編纂された)各種の「命題集」の註解は、それぞれの時代の哲学者たちにとってつねに重要な作業と見なされてきました。

 テクストを読みながら考えること、つまり、哲学の伝統を形作ってきた天才たちと対話し、その思索の成果を踏み台とするとは、「巨人の肩の上に立つ」(standing on the shoulders of giants) ことに他なりません。巨人の肩の上に立つことによって初めて、哲学者たちの到達点を知り、私たち自身が進むべき道を知り、厳密に考えるために回避すべき袋小路の所在を知ることができるようになります。巨人の肩の上に立つことが哲学の第一歩であり、この共通了解が哲学の伝統を支えてきたと言うことができます。

口頭での哲学?

 「古典的なテクストを精密に読む努力が哲学の実質である」という私の主張は、しかし、次のような反論を惹き起こすかも知れません。すなわち、 「いや、テクストを読む作業が哲学に必須だとは思わない。また、哲学の伝統に参入しなければ哲学が成立しないという意見にも同意しかねる。むしろ、口頭での対話のみで哲学は十分に成立する。哲学とは本質的にその場で、いわば『ライブ』で作られることに意義があると考えることも可能ではないか。実際、ソクラテスが読んだ書物の量は、現代人よりもはるかに少なかったはずである。そもそも、古代ギリシャの文化は全体的に口頭でのコミュニケーションを基盤とする口承文化だったのだから、ギリシャにおいて哲学がテクストの解釈を必須としていたとは考えられない。

 たしかに、古代の文化は本質的に口承文化です。したがって、社会生活における聴くこととと話すことの役割は、現在よりもはるかに大きかったでしょう。当然、ソクラテスばかりではなく、当時の知的公衆は、現在とは比較にならないほどわずかな書物しか読まなかったはずです。(しかも、読書とは、基本的に「朗読を聴く」ことでした。)当然、当時の哲学においてもまた、話すことと聴くことの意義は、現代の哲学とはくらべものにならないほど大きかったに違いありません3 。これは疑いのない事実です。

 しかし、それとともに、次の点もまた確かであるように思われます。すなわち、ソクラテスの時代に主流だったかも知れない「口頭での哲学」に与ることができたのは、高度に抽象的な思索を文字の力を一切借りることなく遂行する訓練を受けたごく少数の秀才、天才に限られていたはずであるという点です。

 たとえばプラトンの対話篇に記された対話が実際に口頭で行われる場に立ち会うことを想起するなら、この点を容易に確認することができるでしょう。ソクラテスと対話相手たちのあいだで何時間にもわたり交わされる抽象的な対話を耳で聞きとり、その内容を即座に理解して議論を追跡することは、不可能ではないとしても、極度の集中力を必要とする非常に困難な作業となるに違いありません。少なくとも私なら、早々に脱落してしまいます。

テクストによる哲学の民主化

 そして、「口頭での哲学」の難易度が途方もなく高いという事実は、同時に、次のことを明らかにします。

 私たちは誰でも、プラトンの作品の内容を努力次第である程度まで理解することができます。なぜなら、対話が文字の形で私たちにあらかじめ差し出されているからです。発せられた瞬間に消えてしまう音声とは異なり、決して動かぬ文字が目の前に横たわっているかぎり、私たちは、気が済むまで繰り返し同じ箇所を読み、その意味について思案することが許されます。ソクラテスによって語られたワンセンテンス、ワンフレーズの吟味にどれほど多くの時間を費やしてもかまいません。

 早ければ古代末期、遅くとも印刷術の発明以降、哲学は、目の前にいる誰かとの口頭での対話から、文字との対話へ、正確には、文字を媒介とする著者との対話へと、その姿を大きく変えます。

 そして、テクストを読むことをめぐるこのような事情は、次のように評価することができます。すなわち、哲学の境域が口頭のコミュニケーションを離れて文字の世界へと移動することにより、哲学は民主化され、より多くの知的公衆が哲学に与ることができるようになった、このように評価することが可能です。また、哲学の伝統に参入する者の数が増えることにより、哲学の裾野が拡大するとともに、哲学はその内容を深化させてきたと言うこともできます4

「はいまわる経験主義」とその未来

 哲学における古典的なテクストの解釈の意義は明らかであり、また、将来にわたり、この点が揺らぐことはないでしょう。(たしかに、文字を媒介として天才たちと対話することは、つねに容易であるとはかぎりません。それでも、)文字の形で差し出されたテクストは、哲学の伝統を豊かにしてきた文明の利器です。「読みながら考える」作業を省略した哲学なるものは、都会に暮らしながら物質的な恩恵を一切拒絶して原始時代の生活を再現するようなものであり、正気な人間なら、誰もあえてこのような非合理を試みないはずです。

 ところが、1980年代以降、「哲学カフェ」「哲学対話」などと呼ばれる運動が先進諸国の社会に姿を現しました。私は、この運動には不案内ですが、それでも、「哲学カフェ」や「哲学対話」が、たとえば、口頭での対話を重視すること、哲学に関する基礎的な訓練を前提とせずに議論する場であること、日常生活に密着したトピックを取り上げることなどは知っています。

 たしかに、「哲学カフェ」や「哲学対話」なるものは、哲学のさらなる民主化の試みであるように見えないことはありません。けれども、これまで説明してきたことを前提とするなら、この運動は、哲学の単なる堕落形態と見なされなければなりません。というのも、哲学カフェや哲学対話なるものは、テクストと辛抱強く向き合うこと、つまり「巨人の肩の上に立つ」ことを拒絶することから始まり、またこれをみずからの規定として引き受けているように見えるからです。好意的に表現するとしても、この運動は、「地べた」において徒手空拳で哲学する(無謀かつ安易な)試みであり、2600年の伝統を投げ捨てる「先祖返り」以上のものではないに違いありません。

 いわゆる「アクティブ・ラーニング」についてかつて用いられた言葉を借りるなら、「哲学カフェ」や「哲学対話」とは、「はいまわる経験主義」であり、少なくとも哲学と、哲学を不可欠の一部とする文化の未来をそこには見出されないように私には思われるのです。

  1. この観点から眺めるなら、たとえばデリダによるテクストの解釈は、決して哲学の伝統から逸脱してはいないことがわかります。この意味において、デリダは言葉の正しい意味において哲学者であると言うことができます。 []
  2. エピクテトスやプロティノスの学校(というか塾)はその代表です []
  3. パルメニデスやエンペドクレスなど、ソクラテス以前の哲学者たちの著作の大半が韻文の体裁を与えられている大きな理由の1つに、記憶の便宜、つまり、朗読を耳で聞いたときの覚えやすさがあります。 []
  4. もちろん、こればかりではなく、テクストを中心とする哲学は、口頭での対話の「同時性」という制限を免れている点、つまり、時間を超えた対話を成立させる点でもすぐれています。テクストのおかげで、私たちは、2500年の時間を距ててプラトンと「対話」することができるのです。 []

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1 comment

いずみ 2024年12月23日 - 1:04 AM

 専門的な哲学の研究とは比較になりませんが、私も過去に書物を(自分にできる範囲で、ですが)精読した経験があり、その恩恵は今も生きているなと思います。
 精読の価値を認める一方で、同時にいつも思うのは「たまたま自分は文字を読むことに向いている人間だったんだな」ということです。書物の一文一文を丁寧に読解し、ノートにまとめ直すのは、自分にとって常に楽しく、また「人より上手くできること」でした。
 私事ながら、親戚の子供に一人識字障害の子がいます。文字を読むことが苦手である一方、言語性IQが低いわけではなく、口頭で伝えた内容の理解度は高いのです。
 仮に彼が古代ギリシャに生まれたのであれば、ソクラテスの討論に着いて行けたかもしれないのに、たまたま現代日本に生まれてしまったばかりに、哲学をするのにハンデを負うことになるのだとすると気の毒に感じます。
 ただ、最近はAudibleやPodcastといった“耳で聴く”メディアが興隆しつつあるので、そういったイノベーションを通して、この子にも「哲学する」可能性が開かれていったらいいな、とそんなことを思いました。

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