Home やや知的なこと 「経験に学ぶこと」と「自分の体験に固執すること」のあいだ

「経験に学ぶこと」と「自分の体験に固執すること」のあいだ

by 清水真木

自分の経験から何かを学べると信じる者はバカなのか

 以前、下のリンク先にある文章を書きました。(下に続く)

 以下では、この文章に関連するトピックを取り上げます。

 上のリンク先の文章に記したように、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言らしきものは、ビスマルクに由来します。念のため、ビスマルクの言葉を下にもう一度掲げます。

自分の経験から何かを学ぶことができると信じているなら、諸君は愚者である。私は、むしろ、他人の誤りに学んで自分自身の誤りを避ける方を好む。(“Ihr seid alle Idioten zu glauben, aus Eurer Erfahrung etwas lernen zu können, ich ziehe es vor, aus den Fehlern anderer zu lernen, um eigene Fehler zu vermeiden.”)

 そして、上に引用した一節を短縮して成った「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という文、特にその前半は、「愚者はみずからが経験、特に失敗を経験することにより初めて、自分の間違いを修正することができる」という意味に理解されるのが普通であるようです。

 しかし、上に引用したビスマルク自身の言葉を先入見なしに読むなら、引用の前半に当たる部分、つまり、「愚者は経験に学ぶ」に対応するはずの箇所のもとの意味は、普通に理解されているのとはいくらか異なることがわかります。

 この部分は、「愚者には歴史を鑑とすることはできないかも知れないが、自分の経験に学ぶことはできる」ことを意味しません。ビスマルクには、自分の失敗を振り返るという行動を救済する意図などはなく、彼は、ただ、自分の(失敗の)経験から何かを学ぶことができると信じる者が単なる「バカ」であることを主張しているだけなのです。自分の(失敗の)経験を掘り返しても、何かを学ぶことなどできるわけがないのに、このことに気づかず、糧になるはずのないものに糧を求めるというのはバカのすることだ、これがビスマルクの言いたいことになります。これに対し、「賢者」とは、自分を間違いの泥沼から引き上げるための手がかりを自分自身の内部に求めることの不可能に気づき、他人の誤りを参照することで経験を拡張することに成長の可能性を見出した者に他なりません。

そもそも愚者は経験を獲得できない

 とはいえ、ビスマルクのこの主張は、素朴な直観に反するように見えます。なぜなら、何もかも一度に学ぶことはできず、知識にせよ技術にせよ、その獲得が、つねに「一歩ずつ」「主体的に」成し遂げられる以外にはないからです。言い換えるなら、私たち一人ひとりの現実の生活を支える知識や技術は基本的にすべて経験的に身につけるもの、実際に失敗しないと身につかないものなのです。これは、万人が認める真理でしょう。

 自転車を運転することができるようになるためには、実際に自転車に乗り、何度も転倒しそうになったり、実際に転倒したりしながら練習を繰り返すこと以外に道はありません。自転車の乗り方を解説するYouTubeの動画を寝転んだまま眺めていても、それだけで自転車を運転できるようには決してならないことは誰でも知っています。エウクレイデスに帰せられている「学問に王道なし」という格言も、同じ真理の表現であると言うことができます。

 けれども、ビスマルクの言葉を少し細かく検討するなら、私たちは、ここで「自分の経験」が「他人の誤り」と対比されていることに気づきます。すなわち、ビスマルクが「経験」という言葉によって指し示しているのは、哲学者なら「体験」と名づけて「経験」から厳密に区別するはずのものなのです。体験とは、基本的に一回かぎりの、さまざまな観点からの吟味を受け付けない——この意味において「非歴史的」な——「出来事」であり、1つひとつが砂粒のように孤立した事実です1

 ある出来事を体験すると、当初は、現前するものの生き生きとした印象に邪魔され、これを冷静に吟味する余裕などないのが普通です。しかし、時間の経過とともに、この体験とのあいだに自然な距離が生まれ、それとともに、「体験」を眺める新たな視点が形作られます。そして、人生の他の部分と混じり合わぬまま注意を惹いていたそれぞれの体験という事実は、新たな視点から吟味されることにより、人生の文脈へと、その不可欠の一部として埋め込まれます。消化されて人生の不可欠の一部となった事実、自分の「歴史」となった事実こそ、言葉の本来の意味における「経験」に他ならないのです。

 したがって、愚者に見出される愚かさの本質は、厳密に言うなら、経験ではなく体験にこだわり、体験から何らかの生産的な帰結を引き出すことができると思い込む点に求めることができます。彼ら/彼女らは、体験を経験へと昇華しません。昇華する能力を欠いていることもあれば、昇華をあえて拒否することもあるでしょう。しかし、いずれが原因であるとしても、なまの体験に注意を奪われたまま、そこから先に一歩も進むことができないのが愚者の愚かさの意味であることに違いはありません。彼ら/彼女らには、言葉の厳密な意味における「経験」に与る道が閉ざされているのです。(当然、実体験は、実体験であるというだけの理由で何にも代えがたい価値を持つわけではありません。これは、以前に書いたとおりです。)(下に続く)

 ビスマルクによって「愚者」と名づけられたのは、体験を慎重に吟味してこれを経験へと昇華するのではなく、みずからの体験に固執し、これをそのまま一般化したり拡大解釈したりする存在なのでしょう。たとえば、誰かが「自分の両親と祖父母は全員ヘビースモーカーだったが、誰も肺ガンに罹らなかった」ことを根拠として「喫煙者は肺ガンに罹る危険が高い」という科学的な常識を否定し、「喫煙は健康にとって有害ではない」ことを主張するなら、私は、これを誤った推理と見なします。けれども、この推理は、本人の体験——「肺ガンに罹ったヘビースモーカーを自分は知らない」——を前提とするもの、みずからの体験に徹底的に忠実に従った結果に他なりません2 。もちろん、これは極端な事例です。体験への固執が世界の見方をこれほどいちじるしく歪めることは、現実には滅多にありません。それでも、日々の生活を形作る細々した選択や判断に生活の質を損ねるような偏りが認められるとするなら、この偏りの一部は、体験への不知不識の、無条件の信頼に由来するものであるに違いありません。

 とはいえ、残念ながら、体験への固執から完全に解放されることは誰にとっても不可能です。体験を信頼して生活する方が断然ラクだからであり、(行動経済学を参照するまでもなく、)いちいち考えるのは面倒だからです。私たちにできることは、体験から何かを学ぶことができると思い込まないよう警戒を怠らないこと——人生をたえず吟味すること——以外にありません。

 たしかに、自分の体験を振り返り、これを相対化する努力は、体験からその固有性を剥奪することを意味します。体験から固有性が剥奪されると、体験に想定される主体である私自身の固有の価値まで損なわれたような気持ちになることがあります。これはとてもつらい作業であるかも知れません。それでも、人生をよりよいものにするためには、自分自身からあえて距離をとり、「他人の誤り」を鑑としてみずからの人生を吟味する道、私たち一人ひとりをどこに導くかわからない道を歩き続けなければならない、これもまた確かなことなのです。

  1. 日常的な日本語の使用の場面では、「経験」と「体験」は大体において同じ意味に使われています。それでも、両者はつねに置き換え可能であるわけではありません。たとえば、「職務経験」「人生経験」という表現に含まれる「経験」を「体験」に置き換えることはできません。また、「成功体験」という熟語はあっても、「成功経験」はありません。このように、「経験」と「体験」は不知不識に使い分けられており、その区別は、哲学のテクニカルタームとしてのこれら2つの名詞の使い分けと大体において一致しているように思われます。 []
  2. 体験の不当な一般化は、成功よりも失敗の場合に極端な形をとるように思われます。 []

関連する投稿

コメントをお願いします。