この文章は、次の3点を主な内容とします。
- 世間の多数派が受け入れている規範や常識を芸能人や政治家に闇雲に押しつけてはならない。彼ら/彼女らのあいだでしか通用しない複雑な「掟」や「美学」は、最大限尊重されるべきである。
- ただし、芸能人や政治家のふるまいが有害である場合、当人たちにはしかるべき社会的、法的制裁が課されなければならない。
- それでも、自分が「中居正広」氏の立場だったら同じ悪を避けられたと言い切る自信は私にはない。
芸能「界」の高い壁
昨年末以来、タレントの「中居正広」氏をめぐる報道が週刊誌を中心として続いています。私自身は、現在の芸能界については、知識も関心も持ち合わせていません。また、そもそも、私の自宅にはテレビがなく、したがって、私はテレビ番組を何も視聴していません。誰がテレビに出演しようと、あるいは、誰がテレビ画面から消えようと、このような事実が私の生活に直接の影響を与えることはありません。
しかし、サイバー空間、特にソーシャルメディアの内部では、「中居正広」氏が当事者となったことで知られるようになった事件は、非常に多くの人々の注意を惹きつけたようです。実際、私の承知しているかぎり、X(ツイッター)でも、YouTubeでも、あるいは、他のソーシャルメディアでも、この問題への言及は——ニュアンスに多少に違いはあるとしても——中居氏が惹き起こしたのが犯罪あるいは犯罪と同等の行為であり、決して見逃されてはならないことを主張する点において一致しています。
私は、この主張に何の異議もありません。また、ソーシャルメディアにおけるこの圧倒的な多数意見は、世間の多数意見でもあるに違いありません。たしかに、中居氏の行動に関するかぎり、ネット上の世論には多様性が全面的に欠けています。私は、中居氏を擁護する意見を見たことがありません。しかし、ネット世論がunisonoであることは、事柄の性質を考慮するなら、決して不自然ではないように私には思われます。
ただ、このようなネット上の世論が「芸能人は、世間において支配的な常識や規範につねに従え」「芸能人は模範的な市民であれ」などという要求を前提とするものであるなら、私は、これらの要求には同意しません。
芸能界には、芸能界に固有の複雑な掟のネットワークがあり、また、固有の「美学」があります。固有の掟や「美学」は、芸能界と芸能人を世間から区別する標識であるとともに、芸能活動が世間に与える影響を支える枠組でもあります。芸能界と世間のあいだには両者を距てる壁があり、壁の両側、つまり世間と芸能人はともに、壁の存在を暗黙のうちに認めています。特に、世間の側には、芸能人がいくらか「異常」な生活を送っていることに対する暗黙の期待があります。芸能人の一挙手一投足が人々の注意を惹きつけるのはそのためです。そもそも、珍しくも何ともない、何のやましいところもない「小市民的で平均的な生活」を送る芸能人など、誰も見たいとは思わないでしょう。芸能人とは、ある意味における「非常識」を世間から期待されている存在であると言うことができます。
政治家についてもまた、(政治はそれ自体としては見世物ではなく、世間は政治家に対し「異常」なふるまいを期待しているわけではないとしても、)事情は基本的に同じです。社会に直接の影響を与える政治の世界、特に国政の世界には、世間では決して通用しない複雑きわまる掟のネットワークがあります。政治家の発言と行動は、このネットワークが形作る文脈の内部において理解されなければなりません。世間と政界のあいだには高い壁が聳えているのであり、この高い壁は、政治なるものの維持に必要不可欠なのです。
私は、政治家の発言や行動を世間の常識のみにもとづいて審くべきではないと考えています。同じように、政治の世界へ一般人の「感覚」を持ち込むこともまた、政治を誤らせることになると私はかたく信じています。これは、以前に別の文章で詳しく説明したとおりです。(下に続く)
ときには制裁が必要
とはいえ、芸能「界」や政「界」の掟にもとづく発言や行動の「非常識」には許容の限度があります。この文章の冒頭で言及した「中居正広」氏が惹き起こした事件は、その限度を超えたことにより世間の注意を惹きつけたことになります。
他人の「人格」を尊重すること、つまり、人間を現実にモノとして扱わないことは、「違反した場合には無条件で非難される」という意味において、道徳に関する最低限度の規則です。そして、中居氏の事件は、この規則に対する明らかな違反でした。
このような場合、当の芸能人に対し何らかの制裁を課すことは、望ましいことであるばかりではなく、社会の安定において必要ですらあるに違いありません。このかぎりにおいて、少なくとも現在までのところ、ネット上に現れた世間の反応は正当であると考えることができます。
芸能人を審くのは容易ではない
私は、昨年末に週刊誌の報道により明らかになった出来事をめぐるネット上の世論に原則的に同意します。けれども、それとともに、少なくとも私は、「中居」氏に対し世間の多くの人々と同じような激しい非難の言葉を投げつけることは控えることにしたいと思っています。というのも、私が「中居正広」氏とまったく同じ立場であったと仮定して、それでも同じ悪を避けられると断言することが私にはできないからです。
もちろん、「中居」氏と同じ立場に身を置いたとしても、誰もが「中居」氏と同じようなタイプの暴力的行動の当事者になるわけではありません。世間の常識に従って行動することができる人は少なくないでしょう。
しかし、私には、そのような自信がありません。そもそも、(反社会的ではないとしても)非常に特殊な環境の内部において、これに巧みに適応しながら人生の大半を過ごしてきた芸能人の身になって世界を眺めることは困難です。彼/彼女の目にどのようなふるまいが自然と映り、どのようなふるまいが不自然と映るのか、見当がつかないのです。今回の事件との関係に範囲を限るなら、芸能界において通用している掟のネットワークの拘束力がどのくらい強いものなのか、これがわからないのです。
世間の常識や規範を参照しながら、芸能界の少なくとも一部において自然と見なされている(、しかし、世間を基準とするなら明らかに道徳に反する異常な)行動を相対化し、世間から非難されない程度には適切にふるまうことができるなら、それは結構なことであるには違いありません。しかし、「中居」氏には、このようなふるまいができませんでした。「中居」氏が病気でも意志薄弱でもなく、私と同じ程度にはまっとうである1 なら、私もまた、氏と完全に同じ立場に身を置いた場合、芸能界に固有の文脈から離脱することができず、氏と同じ間違いを犯す可能性がある、私はこのように考えています。
- 他人の言動を理解したり他人と意思疎通を試みたりする試みはすべて、当の相手が「私と同じ程度にはまっとうである」と想定することによって初めて可能になります。 [↩]