Home 世間話 「原作に忠実」であることは漫画を映像化した作品を評価する尺度となりうるか

「原作に忠実」であることは漫画を映像化した作品を評価する尺度となりうるか

by 清水真木

この文章は、以下の5点を内容としています。

  • 漫画の映像化が増えているが、「原作に忠実か」は評価基準にならない。
  • 漫画とテレビドラマは異なる表現形式を持ち、独立した作品である。
  • 芸術は形式と内容が結びつき、適切な表現方法が求められる。
  • 原作の忠実な映像化は、必ずしも優れた作品を産むとはかぎらない。
  • 現代のテレビドラマは方向性を失い、形式の解体が進んでいる。


 映画やテレビドラマの中には、漫画を原作として製作されたものが少なくありません。また、実際に調査したわけではありませんが、映画やテレビドラマ全体に占める漫画をもとにした作品の割合は、年を追うごとに増えているような印象を持っています。漫画の映像化の増加が好ましい傾向であるかどうか、映画、テレビドラマ、漫画のすべてに不案内な私には判断ができません。また、同じ理由により、漫画を原作とする個別の映像作品についても、私には評価する資格はないと承知しています。

「原作に忠実である」ことはいかなる価値でもない

 それでも、漫画を原作とする映画やテレビについては、少なくとも1つ、自信を持って断言できることがあります。すなわち、漫画を原作とする場合、「どの程度まで原作に忠実であるか」は、映像作品の評価の尺度とはなりえないということです。

 今から1年以上前、日本テレビが原作に当たる漫画(芦原妃名子『セクシー田中さん』)の内容を大きく改変したことが原因となり、原作者とテレビ局のあいだで大きなトラブルが発生しました。この事実からは、映像化に当たって行われた改変が、原作の作者、および、熱心な読者の目に、原作の価値が毀損されるほど大きなものと映ったことがわかります。

 もちろん、漫画の映像化にあたりテレビ局がこの種類のトラブルを惹き起こしたのは、これが最初ではなく、また、最後でもありません。それでも、自宅にテレビ受像機がない私のような者の耳にも届いたところを見ると、この出来事は、非常に多くの人々の関心を集めた事件だったに違いありません。

 ところで、私が知るかぎり、この問題についてネット上で意見を表明した人々はほぼ例外なく、テレビドラマを製作した日本テレビ側を悪と見なして非難しています。私もまた、少なくとも、映像化に携わった人々の発言や行動に由来する事柄に関するかぎり、ネット上の支配的な意見が誤りであることを主張するつもりはありません。

 それでも、私は、原作者、および、漫画の読者から発せられた「原作と違う」という声には違和感を覚えます。なぜなら、一方が漫画であり、他方がテレビドラマであるかぎり、後者が前者と「同じ」であるなど、そもそもありうべからざることだからです。両者のあいだに期待することができるのは一方に触れることが他方を想起させることであり、これ以上の関係を求めるのは無理であるように私には思われます。むしろ、もとの漫画が原作であれ、あるいは原案であれ、映像作品は、独立した自律的な作品として扱われなければならないのです。

藝術作品における形式と内容の一致

 藝術のすべてのジャンルには、そのジャンルに固有の形式があります。そして、この固有の形式(素材や技法)には、これを用いることによってもっとも適切に表現することができる内容が対応しています。

 歴史的に見るなら、ある藝術のジャンル——たとえば古代エジプトの絵画、あるいは、クラシック音楽——は、その形式を俟って初めて適切に表現しうる題材や主題や内容を探すことから始まります。そして、形式と内容のあいだに円満な一致が見出される地点においてジャンルとして完成します。しかし、その後、みずからが適切に表現しうる範囲を超えたところに題材を求めることで、そのジャンルは輪廓を失い、そして、衰退、消滅して行きます。これは、どのような藝術にとっても避けられない運命であると言うことができます。

 19世紀後半以降、あるジャンルにおける創作活動が方向を見失い、藝術家たちが踏み惑うたびに、そのジャンルの形式に対応する固有の内容へと還帰する試み——「純粋詩」「純粋小説」「純粋演劇」「純粋音楽」「純粋映画」など、「純粋」の2文字をみずからの名に含む藝術運動がこれに当たります——が繰り返し姿を現します。この事実は、藝術において形式と内容が分かちがたく結びつくという認識が藝術家のあいだで広く共有されてきたことを意味します。

 1つの藝術のジャンルは、他のジャンルに還元不可能な固有の性格を持っており、これは、作品における内容と形式のあいだの適切な対応として、これを眺める者に自然に感得されるものです。表現される内容がその形式に適っていることが誰の目にも明らかであることは、すぐれた作品であるために欠かすことの出来ない条件なのです。

極限概念としての「純粋漫画」と「純粋テレビドラマ」

 このような観点から眺めるなら、漫画には、その表現に関する固有の形式があり、表現される内容は、この形式によって制約を受けます。(テレビドラマが藝術であるとするなら、)テレビドラマについてもまた、事情は同じです。連続ドラマであるなら、1回あたりの放映時間、放送される時期、回数、曜日、時間帯、想定される視聴者などにもとづき、表現しうる内容はおのずから制約されることになるはずです。

 漫画以外の形式でも表現可能なものを漫画から取り除いたのちに残るものを「純粋漫画」と名づけ、同じように、テレビドラマ以外の形式でも適切に表現可能なものがすべて除去されたあとに残るものを「純粋テレビドラマ」と名づけるなら、「純粋漫画」と「純粋テレビドラマ」は完全に「通約不可能」であり、一方を他方に移し替えることは不可能となります。

原作と映像作品はまったく別物

 つまり、ある漫画が作品としてすぐれたものであり、その作品の内容は、漫画に固有の表現技法や素材と一体であるほど、他のジャンルに移し替えることが困難となります。一方を他方に移し替える試みは、その内容を否応なく変質させます。ある漫画と、この漫画を原作とするテレビドラマは——テレビドラマの製作者や漫画の原作者の実際の意図とは関係なく——何らかの意味においてすぐれた作品となることを目指すかぎり、権利上、たがいに独立した作品と見なされなければならないのです1

 原作に忠実であることは、テレビドラマにとり、すぐれた作品の条件ではないばかりではなく、反対に、この事実は、テレビドラマの本来の姿からの逸脱として否定的に評価されうるものです。「原作の漫画に忠実である」という理由によって肯定的に評価されたテレビドラマなるものがあるとするなら、それは、テレビドラマとしては失敗作である可能性が高いでしょう。

 21世紀前半の現在が日本のテレビドラマの黄金時代であると考える人は少ないに違いありません。むしろ、今のテレビドラマは、方向を見失い、その形式は、緩やかに解体しつつあるように見えます。そして、原作に忠実であるかどうかを尺度としてテレビドラマが評価され、原作の大幅な改変が世間の耳目を集める不幸な事件を惹き起こしたことは、それ自体として、現在のテレビドラマの困難な状況を雄弁に物語るように私には思われます。

  1. 「原作となる漫画と映像化された作品は別ものである」というのは、原作者の「ポリシー」や「考え方」の問題ではなく、漫画が漫画であり、テレビドラマがテレビドラマであるかぎり、つねに真と見なされなければなりません。 []

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