この文章は、以下の7点を内容としています。
- 「○○一筋△十年」は熟練を要する職人技や社会的に必要な職業において価値がある。
- 楽器演奏や武術などには長期間の修練と適切なプログラムが必須。
- しかし、長く続けること自体が自慢に値するわけではない。
- 「呼吸一筋100年」のように機械的な行為は自慢にならない。
- 一つの思想や信条を何十年も守り続けることは無価値で有害。
- 価値観は相対的であり、変化に応じ柔軟に修正すべき。
- 変化を無視し続けることは「主張する機械」になる道。
世の中には、みずからが同じ1つの事柄を長期間にわたって続けてきたこと、しかも、他のことには見向きもせずに続けてきたことについて、「○○一筋△十年」などと言ってこれを自慢する人がいます。たしかに、よそ見することなくひたむきに続けることにより価値が産み出される活動や努力は珍しくありません。
たとえば、職人的な技倆は、長期間にわたる修練によって初めて身につくもの、あるいは、ながく研鑽を積むほど上達するのが普通です。アンダース・エリクソンの有名な著作における指摘を俟つまでもなく、楽器の演奏、伝統的なゲーム、武術などについてもまた、習熟のための時間と適切なプログラムが必須です。
他人に対し自慢することに意味のある「○○一筋△十年」は、高度の熟練を必要とするものばかりではありません。社会が間違いなく必要とする活動、たとえば漁業や農業、林業などについては、これを長期間にわたって続けることに価値があることは明らかです。
しかし、誰が考えても明らかなように、長く続けさえすれば何でも自慢に値する価値を帯びるわけではありません。たとえば、100年間にわたって生きてきた老人が「呼吸一筋100年」であることを自慢するのを耳にするとき、私たちは、100年間にわたる呼吸が無価値であるとは思わないとしても、これを他人に向かって自慢するに値する成果とは認めません。呼吸は、熟練を必要としない機械的反復だからであり、しかも、生きるためには呼吸しないわけには行かないからです。
それどころか、「○○」に代入される言葉によっては、長く続けることが自慢に値しないばかりではなく「○○一筋△十年」という自慢が、当人の意図に反し、その評価を毀損する場合すらあります。その代表が、人間や社会について、同じ意見、同じ信条などを何十年にもわたって守り続けることです。「平和運動一筋50年」「反米保守一筋60年」・・・・・・、このタイプの「○○一筋△十年」は、無価値であるばかりではなく有害ですらあります。
人間が住む世界の内部における価値評価に絶対的なものなどありません。すべては相対的であり、とどまることなく変化し続けています。現実に目を向け、これに寄り添い続けようとするかぎり、私たちは、みずからの経験や学習にもとづいて、個別の事柄に関するものの見方を変え、そして、社会に対する理解や態度を柔軟に修正します。(それとともに、現実とのあいだに生まれる緊張の中で、現実の方をより好ましいものに修正しようとも努力します。)この柔軟性は、人間の自然に属するものであり、この柔軟性を反映する発言や行動は、つねに高く評価されるべきであると私は考えています。
反対に、現実がたえず変転しているにもかかわらず、同じ一つの立場に何十年にもわたってとどまり続け、これを「○○一筋△十年」などと自慢するなどということは、現実の変化から目を背け、そして、目の前の現実を少しずつ好ましいものにする努力を放棄することによって初めてなしうることです。特に政治に関しては、右翼にも左翼にも、現実から目を背けたまま、柔軟性を失ったフレームワークにもとづき同じことを――経験にも現実にも裏切られて――不機嫌に繰り返す者は少なくありませんが、このような者は、「人間」であることをやめて単なる「主張する機械」になることをみずから選びとっているのかも知れません。