日本人の識字率は、99パーセント以上であると言われています。さらに、国民はほぼすべて、ただ何らかの文字を知っているだけではなく、それなりに複雑な漢字を書いたり読んだりする能力を具えています。
アメリカには、文字を知っていても英語を使うことができない国民がいます。同じように、中華人民共和国の全国民が標準中国語を自由に使いこなすわけではありません。
このような事実を考慮するなら——よい悪いは別として——すべての国民に最低限の日本語を読んだり書いたりする能力があるというのは、諸外国とくらべ、政治、経済、社会、文化のあらゆる面において計り知れないアドバンテッジであることがわかります。「分断」の拡大が公共の言論空間における重要な話題であるにもかかわらず、最低限の統合が維持され、大規模な暴動が起こるようなこともないとするなら、それは、日本語が紐帯の少なくとも1つとして役割を担っているからであるに違いありません。
しかし、日本人のあいだには、このような不識字(illterate) はほぼゼロではありますが、最近は、これとは別に、”aliterate”1 が急速に増えているように思われます。”illiterate”がそもそも文字を読むことができない者を指すのに対し、”aliterate”の方は、文字を読んだり書いたりする能力はあっても、この能力を行使して文章を読んだり書いたりすることはない者を指します。名詞形は”aliteracy”です。”aliterate”に定訳はありませんが、あえて訳すなら「文字離れ」となるかも知れません。
わが国には、illiterateはほぼゼロですが、aliterateは少なくありません。どの世代においても、一定の割合がaliterateに分類されるはずですが、それでも、私の印象では、世代が下るほどその割合は大きくなるように思われます。”literacy”という言葉を(日本語の名詞としての「リテラシー」ではなく、)”aliteracy”の反対語として用いるなら、この場合のliteracyとは、何も高級な文学作品や「教養書」を日常的に読む習慣や能力を意味するものではありません。この場合のliteracyとは、解決すべき問題に逢着したとき、考える材料を手に入れることを目的として、それなりにまとまった嵩の文章、具体的には書物や雑誌記事にアクセスし、その内容を自分なりの問題解決の手がかりとして利用する態度や姿勢や習慣のことです。
現在の40歳以下の世代は、「デジタルネイティブ」などと総称され、なぜか次の時代を切り拓く能力を具えた新しい世代であるかのように信じられています。もちろん、非常に高度なliteracyを具えた人材がこの世代にいないわけではないのでしょう。(後篇に続く)
- alliterateではありません。 [↩]