Home やや知的なこと illiteracyからaliteracyへ(後篇)

illiteracyからaliteracyへ(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「illiteracyからaliteracyへ(前篇)」の続きです。

 しかし、私の実感としては、世代が下がるほど、全体としては、この意味におけるliteracyが失われて行きます。また、aliteracyの程度は、学歴や学力とは必ずしも相関しないように思われます。正解として与えられたものを覚えたり、正解に辿りつく決まった手順として教えられたものを機械的に問題に適用する点ですぐれた能力を発揮する者たちも、正解がない問題を多面的に検討して自分なりの答えを見つけたり、それどころか、解決すべき問題を発見したりする能力には乏しいことが少なくないのです。

 実際、社会生活や勉強の中で何かわからないことに出会ったときの反応は、literacyの低下を雄弁に物語ります。「デジタルネイティブ」の名称に反し、若い世代は、総じて、問題解決の手段としてデジタルを利用しません。手もとにあるスマホがみずから考えて答えを出すために使われることはないのです。わからないことに出会ったとき、まず検索し、検索するだけではなく、次に調べる事柄と範囲と着地点を漠然と予想しながら考える材料を掘り起こして行く——ある意味において当たり前の——態度は、むしろ、40歳よりも上の世代に属しているように私には思われます。

 デジタルネイティブのうち、もっとも深刻なaliterateは、知らないことに出会っても、大抵の場合、スマホで調べてみることにすら思いいたらず、また、「わからない」と声を挙げることもなく、誰かが「正解」を教えてくれるのを受動的に待ちます。(私がこれまでに出会った学生の中にも、たくさんいます。)そして、誰かが「正解」として押しつけたものを、正解であるかどうか確認すらすることなく、そのまま引き受けます。したがって、たとえば政治的に「右」の立場を押しつけられた者はそのまま右へ、「左」の立場に最初に接触した者もまた、自分とは立場を異にする人々の身になって事態を眺めてみる必要に気づくことすらないまま、左の方へと引きずられて行きます。(もっとも、これは、若者にのみ認められることではありませんが。)

 学生や新入社員がこのレベルのaliterateの場合、壊れた自動人形のように、文字どおりの意味で「手取り足取り」面倒を見なければなりません1

 もちろん、全員がこれほどひどいわけではありませんが、それでも、本を読みながら考える——つまり、経験を拡張する——つもりがない点では、literacyに乏しいことに変わりはありません。しかし、前にも書いたように、本を読むというのは、経験を拡張するもっとも効率的な手段であり、何か問題に逢着したとき、自分なりにもっとも納得の行く答えを手に入れるための手段です。つまり、aliterateに陥ったデジタルネイティブは、このもっとも効率のよい手段をみずから放棄していることになります。aliterateは、まさにaliterateであるという理由により、社会において指導的な位置を与えられることはないはずですが、それでも、デジタルネイティブが社会の多数派となるとき、日本語を紐帯の1つとしてきたわが国の社会の統合がaliterateのせいで毀損されることになるのではないか、私はひそかにこのような懸念を抱いています。

  1. 私の経験の範囲では、たとえば、あるテーマについて学生に調べさせ、調べた結果をまとめて発表させる場合、「お題」と発表の形式と締め切りを指定するだけでは十分ではありません。「試行錯誤」というものを極端に嫌うせいなのか、彼ら/彼女らは、思うような結果が一度で出ないと、他の可能性を検討せず、その段階で難破したまま動かなくなってしまいます。だから、一度ですべての作業が上手く行くよう、細かく方向づけすることが必要となります。具体的には、(1)文献検索にどのサイトを使用すべきかを教え、(2)検索に使用するキーワードを教え、(3)ヒットした文献のうち、優先的に確認すべきものの見分け方を(もっとも標準的な文献に確実に辿りつけるよう)説明し、そして、(4)文献の入手方法を教え、(5)文献を入手したら、発表に反映させるべき箇所を具体的に指示し、(6)発表においてどの概念をわかりやすく説明しなければならないかを示し、(7)文献を読んでいるときに出会う可能性のある未知の関連する話題について事前に説明し、そして、文献の要約が出来上がったら、(8)発表前に原稿を提出させ、誤りを修正させる(あまりにもひどい場合は、私が自分で書き直す)ことが避けられません。学生に何かを調べさせようと思うなら、その都度、学年に関係なく、事前な完全な「地ならし」が必要となります。(=学生に課すのと同じ作業を学生の目線で私があらかじめ実行し、学生が躓くかも知れないところを確認します。これは、旅行ガイドによる現地の下見と同じような作業です。)そして、毎回これだけ手間をかけなければならないのなら、私が最初からすべて自分で話してしまった方がよほど効率的であるのは確かです。これは、一部の教育学者のあいだで「教育ごっこ」と呼ばれているものの一例です。 []

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