この文章は、以下の4点を内容としています。
- 哲学は「無前提」の知を目指すが、常識や先入観の影響を受ける具体的状況から着手される。
- 哲学は根源へと向かう探究であり、現実に対する「批判」という側面を持つ。
- 政府の自然科学偏重のせいで、哲学を始めとする人文学は「科学に擬態」せざるをえなくなった。
- 科学への擬態は、哲学固有の伝統や本質を損う危険がある。
哲学は途上において着手されざるをえない
専門的な研究領域としての「哲学」とは、「無前提」の知識、あるいはこのような知識の獲得へと向かうプロセスです。少なくとも、専門の研究者の多くは、世間では哲学についてこのように信じられているのであろうと予想しています。
哲学者たちの予想のとおり、世間が哲学についてこのような印象を本当に抱いているのかどうか、私にはわかりません。それでも、この印象は、それ自体としては誤りではありません。というのも、歴史を振り返るなら、哲学は——プラグマティズムやポスト構造主義のような「基礎づけ」を嫌うタイプの思索を含め——例外なく、平均的な常識の相対化をつねに目指してきたからです。哲学は、あらゆる先入見を排し——必要なら「善悪の彼岸」に赴いてでも——「本当のところ」(=真理)を探求する試みであると言うことができます。
しかし、哲学が何ものも前提としない「真理の探求」であるとは言っても、このことは、哲学が何もないところから「裸一貫」で着手されるべきであることを意味しません。そもそも、何の素材もなく何の問題もない真空に放り出され、「ほら、あらゆる先入見から解放されたぞ、さあ考えろ」と言われたところで、誰も何も考えることはできません。考えるとは、何よりもまず問いに答えることだからです。真空において遂行される哲学のみが真正であるなら、哲学するにもっともふさわしいのは、生まれたばかりの赤ん坊であることになってしまうでしょう。
哲学は、無前提の知を目指す試みです。しかし、その端緒は、具体的な状況に求められざるをえません。哲学は、私たちを否応なく立ち止まらせる問題があり、考えるための素材となるべき(言葉のもっとも広い意味における)「事実」がある場所において着手されます。その場所は、現実の日常生活のどこかであっても、あるいは、哲学の伝統の内部であってもかまいませんが、確かなことがあるとするなら、それは、哲学が何らかの意味において「根源」へといたる知的運動であるとしても、個別の探究はつねに、何かの途上、つまり、先入見や常識によってすでに多少なりとも歪められた現実から着手されざるをえないことです。
私たちの哲学は、何らかの文脈に途中から放り込まれることで始まるのであり、未開の荒野を開拓するようにゼロから哲学を「建設」することなど不可能なのです1 。
哲学は、無前提の知を目指す試みでありながら、それとともに、私たちは、進行中の現実に途中から否応なく投げ込まれることにおいてしか哲学に着手することができません。言い換えるなら、哲学は、すでに目の前にある常識や哲学的見解を疑い、その地盤を少しずつ掘り崩す作業として初めて目に見えるものとなります。哲学は、否応なく(言葉のもっとも広い意味において)批判的とならざるをえないと言うことができます。
科学に擬態する哲学
哲学は、つねに何かの途上において着手されざるをえないものであり、この意味において「文脈」に依存する知的活動です。これは哲学の本質を形作る性格の1つであり、紀元前6世紀から現在まで、渝ることなく受け継がれてきました。
しかし、1990年代以降、哲学を始めとする人文学は、これまで述べてきたような意味における文脈ではなく、これとは本質的に異なる「空気」に巻き込まれ、その姿を少なからず歪められているように私には思われます。
すなわち、20世紀の終わりごろから、大学の「国際化」や「グローバル化」——おそらくこれらは基本的に同じ意味なのでしょう——の影響のもとで、そして、文部科学省による自然科学偏重のせいで、文系の諸学問の成果が自然科学の基準で審かれる機会が多くなりました。たとえば、「インパクトファクター」「被引用回数」など、それまで文系には縁のなかった指標が導入されたり、海外の学術雑誌への投稿が高く評価されたりするようになりました。このような変化がわが国の知的世界全体に深刻な悪影響を与えつつあることは、下のリンクの先にある2つの文章において詳しく説明したとおりです。
このような状況のもとで、文系の諸学問は、自然科学の基準に適合するようその体制を変えることを余儀なくされました。それでも、社会科学に属する諸分野が陥った窮地は、それほど深刻なものではありませんでした。なぜなら、社会科学の素性は、「社会現象に適用された自然科学」であり、「自然科学の劣化版」だからです。自然科学の基準に適合する体制を作るにあたり、一部の分野の研究者は、髪の毛を掴まれて無理やり引き上げられるのに似た苦痛を味わうかも知れません。しかし、適応の努力は、各分野の研究の本質を損ねることにはなりません。
これに対し、人文学、特に哲学については、事情がまったく異なります。哲学は、探究の目的についても手続についても、自然科学とは根本的に異なるからです。
自然科学の基準への適合とは、哲学の場合、その固有の思索をいったん括弧に入れた上で、さしあたり「科学に擬態する」ことを意味します。具体的には、哲学の伝統とは無縁の、自然科学由来の観念を引き受け、あたかも哲学に「最先端」なるもの(および、これを指標として設定される研究の「進歩」)があり、哲学にとって研究成果の「オリジナリティ」が無視することのできないものであることを認める「ふり」をすること、これが擬態の意味です。哲学にとり、科学への擬態は、今のところ、大学という制度の内部で生き残るための唯一の選択肢であるに違いありません。哲学に関するかぎり、「研究計画」を立てるなど不可能であるにもかかわらず、私たちは、外部から求められるがままに年度ごとの研究計画らしきものを必要に応じて作成しています。
揮発の危機
ただ、擬態を強いられても、研究者たちがこのような状況についてそこはかとない違和感を抱き、あくまでも「身過ぎ世過ぎ」のためと斜に構えていられるかぎり、不正常な形態においてであるとしても、哲学が大学の世界で生き残ることは可能でしょう。しかし、この擬態が世渡りの術にすぎないことを忘れたとき、哲学は、大学という制度の内部では生き残ることができるかも知れないとしても、古代ギリシャ以来の伝統を見失い、揮発してしまうことになるのではないか、私はこのような危惧をひそかに抱いています。
すなわち、哲学研究が何らかの意味において「進歩」を受け入れるものであり、したがって、哲学には「最先端」があり、この最先端を追跡して「オリジナル」な論文を書き、「海外の学術雑誌」にこれを投稿し、さらに、この研究成果を梃子に「競争的な研究資金」を獲得すること……、このようなことが哲学の本質に適う活動であると本気で思い込み、自然科学もどきの活動をギリシャ以来の哲学の伝統に無理やり接ぎ木しようとする研究者、このような活動こそ哲学の伝統に棹さすことであると誤解する研究者が現れたとき、制度としての哲学は生き残っても、学としての哲学は危機に瀕する、私はこのようにかたく信じています。
- 『方法序説』において、デカルトは、すべての学問の基礎となる哲学をゼロから再建する必要を強調します。デカルトが古代と中世の哲学の成果をすべてさしあたり括弧に入れ、何もないところから独自の形而上学を作り上げたこと、あるいは、読者に対しそのように思い込ませようとしたことは事実です。しかし、デカルトは、彼が「普遍(数)学」(mathesis universalis) と名づける体系の構築という構想を清算してしまったわけではありませんし、デカルトをこの構想へと促すことになったプロジェクト、つまり、彼の同時代の学問と社会の混乱の解決を諦めたわけでもありません。 [↩]