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「地下横断歩道」論(その2)

by 清水真木

※この文章は「『地下横断歩道』論(その1)」の続きです。

 地上の横断歩道を使用する歩行者には、横断する前から、横断することによって辿りつくはずの地点があらかじめ見えているのが普通です。そして、道路を横切ることにより、その地点との距離が少しずつ小さくなり、最終的に、道路を渡ることによってゼロになります。歩行者の視界はゆるやかに変化し、道路を渡り始めてから渡り終えるまで、歩行者は1つの空間の経験に与ります。

 これに対し、地下道を用いて道路を横断する場合、地下道の出口(=道路を横断して辿りつくはずの地点)は、歩行者が地下への階段を降り始めるのと同時に、歩行者の視界からいったん消えます。視界の連続的な変化が失われるのです。

 また、歩行者は、狭い地下通路を歩き、ふたたび地上に出るわけですが、この間、どれほど単純な構造の地下道でも、少なくとも2回は歩く方向を変えなければなりません。しかも、大抵の場合、地下に降りるときとは反対の方向へと階段を上って地上に出ます1 。同じ空間の内部を移動しているはずであるにもかかわらず、道路を横断する前後の歩行者の目に映るものは、さしあたりまったく異なります。地下の通路を歩いているあいだ、歩行者は、いわば「どこにもいない」のであり、この「どこにもいない」ことによって、方向をめぐる認識が失われ、空間の経験が2つに分割されてしまうのです。

 横断歩道橋の場合、階段の上り下りにおいてまなざしの方向が変化するとしても、周囲が見えなくなることはありません。自分がどちらの方向を向いているのか、そして、歩道橋を下りたときに何がそこにあるのか、あらかじめ確認することが可能であり、そのおかげで、空間の経験の断絶は発生しません。

 到達地点を眺めながら横断歩道を歩くのとは異なり、地下道を歩くとき、空間の把握の仕方は、否応なく抽象的になります。本当なら、地下には地下の地理があり、地下には地下の空間があるはずです。実際、東京、大阪、名古屋などの各地に作られた広大な「地下街」は、それ自体が独立の都市空間を形作っています。(そもそも、これらは、横断歩道の代用品ではありません。)しかし、道路の横断のためだけに作られた地下道は本質的に一次元的です。そこには、抽象的な記号としての行き先の表示のみがあり、具体的な空間は認められないからです。

 移動のための施設を都市の地下に作るのなら、それは、歩行者や自転車のためではなく、反対に、自動車のためのものとするのが適当であるように思われます。自動車の速度を考慮するなら、車道を地下に建設することには何の問題もないばかりではなく、むしろ、歩行者にとり安全で連続した空間を産み出すことになるように思われるのです。

  1. たとえば、東西に走る道路を南から北へ横断する単純な横断歩道の場合、東に向かって地下への階段を下り、90度右に曲がって通路を歩き、もう一度90度右に曲がり、地上への階段を西に向かって上がります。 []

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