※この文章は、「『表現の自由』について、あるいは、不快なものに向き合う義務について(前篇)」の続きです。
そして、事情がこのようなものであるかぎり、公共の空間において、私たちは誰でも、嫌な気分にさせるもの、同意しがたいもの、神経を逆撫でするようなものに出会うことを免れられません。民主主義の社会において公共の空間に身を置くとは、不快なものに囲まれて生きることに他ならないのです。
とはいえ、上に述べたように、私たちの目にとまる可能性のあるこのようなものもまた、公共の福祉の促進を目的として公共の空間へと差し出されたであるものと見なすのが民主主義の「お約束」です。したがって、自分にとって不快なものが目にとまっても、自分にとって不快であるというだけ理由によってこれを公共の空間から排除するよう要求することは、誰にとっても許されません。この意味において、何かを表現する権利一般は、不快なものに向き合う義務、不快なものに囲まれて生きる義務と一体をなすと言うことができます。
もちろん、「不快なものに向き合う義務」とは、不快なものを丸ごと承認する義務を意味しません。不快な表現が差し出されたとき、私たちがなすべきであるのは、これが不快なものであり、社会にとって有害なものであることを説明し、これにより、当の表現を差し出した者、あるいは、この表現を歓迎する者たちを——暴力的にではなく——オープンな対話によって合理的に説得することであり、これが「不快なものに向き合う義務」に他なりません。
「私はあなたの言うことには同意しないが、あなたがそれを語る権利のためには死ぬまで戦うだろう。」( « Je ne suis pas d’accord avec ce que vous dites, mais je me battrai jusqu’à la mort pour que vous ayez le droit de le dire.») これは、ヴォルテールが語ったと伝えられる言葉です。この言葉とともに、私たちは1人ひとり、民主主主義の社会に生きる者として、「不快なものに向き合う義務」を負っていることを想起しなければならないように思われます。
私を不快にするものが目の前に差し出されたり、私には同意しがたい意見が耳許で繰り返し表明されたりすることがあっても、当の表現や行動が公共の福祉を促進する意図にもとづくものであるかぎり、つまり、広い意味において合理的である可能性が少しでもあるかぎり、暴力あるいは暴力的な手段を用いて公共の空間からこれを排除してはなりません。
反対に、私たちに課せられているのは、不快に耐えてこれを受け止め、その上で、合意形成を目指す努力の義務なのです。