※この文章は、「なぜ日本には「必読書ランキング」がないのか(その1)」の続きです。
それでも、このような偏りにもかかわらず、英語圏では、世代に関係なく読むべき書物のリストが繰り返し作成されています。また、ネットで検索することにより、英語圏以外でも、たとえばフランス語圏やドイツ語圏ではそれぞれ、フランス語やドイツ語を母語とする読者向けのランキングが公開されていることがわかります。検索でヒットした必読書のリストの中には、インド人のための必読書を集めたものもありました1 。
言葉の広い意味において「古典的」と呼ぶことができるような作品を読むことには、重要な意義が認められます。すなわち、以前、次の文章において述べたように、古典的な作品は、世代、時代、環境を超える意思疎通のための共通の前提となり、伝統の内部における文化的な再生産の前提となるものなのです。英語圏において必読書のランキングが飽くことなく作り続けられてきたのは、文化の多様性と一体性を維持するためには特別な自覚と工夫を欠かすことができないという認識が不知不識に共有されているからであると考えるのが自然です。
ところが、ネット上に公開された必読書ランキングを眺めているうちに、私は、ある不思議な事実に気づきました。それは、日本人向けの必読書ランキングがほとんどまったく見当たらないということです。
日本語は、母語話者の数が多い大言語の1つです。また、日本人の識字率は非常に高く、出版市場も決して小さくはありません。つまり、日本には、日本語を母語とする人口にふさわしい規模の読書人口があります。それにもかかわらず、日本のサイバー空間において目につくランキングは、新刊のベストセラーを集めたものにすぎません。日本の新聞社、出版社、放送局、書店などは、世代を超えて読まれるべき必読書のリストを作成し公開することに興味を示しません2 が3 、それは、日本の知的公衆のあいだにこのようなリストに対する需要がないからであり、日本の知的公衆が必読書のランキングを求めないのは、文化の再生産に対する関心が希薄だからであるのかも知れません。
たしかに、文化が健全であり生産的であるためには、その内容が多様でなければなりません。このかぎりにおいて、政府や学校のような公的な機関が自国の文化を代表する一群の書物を選定し、これを国民や生徒に押しつけるようなことは好ましくないと言うことができます。
けれども、英語圏のように、わが国においても、個人の読書家、出版社、新聞社、放送局など、社会教育の間接的な当事者が、それぞれの観点から「日本人が読むべき古典的作品」のリスト(日本人の作家によるものに限りませんし、文学作品に限定しなければならない理由もありません)を掲げてその妥当性を世に問うことは、可能であり、また必要であると私は考えます。ネット上に公開された複数のリストのあいだに認められる差異は、何よりもまず、公共の空間において、日本文化のあるべき姿に関する生産的な言論を刺戟するはずだからです。
- もちろん、このようなランキングを形作る作品は、想定される読者が母語とする言語により大きく異なります。フランス語を母語とする読者のためのランキングの上位を占めるのは、バルザック、スタンダール、フローベールなどのフランス人の作家たちですし、インド人が作成したランキングの上位は、インド文化に不案内な私には完全に未知の作家たちの作品によって占められていました。 [↩]
- 日本語の必読書のリストを作成してネット上に公開しているのは、ほとんどの場合において個人であり、しかも、作成されたリストの大半は、「漫画」や「ライトノベル」などのような限定されたジャンルを対象とするものです。 [↩]
- ほぼ唯一の例外となるのが、「新潮文庫の100冊」です。これまでに「新潮文庫の100冊」への登載された作品を出現頻度の順に排列することにより、近似的な必読書ランキングを作成することが可能となるはずです。
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