Home やや知的なこと シンギュラリティの起こり方(前篇)

シンギュラリティの起こり方(前篇)

by 清水真木

 しばらく前、次のような文章を書きました。以下は、これに関連する話です。

 「シンギュラリティ」(技術的特異点)という言葉があります。この言葉の意味について、厳密に一義的な定義があるわけではなく、使う人により、文脈により、その指し示す事態はたがいに異なります。ただ、誰がどのような場面においてこの言葉を使うとしても、AIの性能が人間の知能を何らかの意味において乗り越えること、あるいは、AIの性能の向上におけるこのような段階を指し示す点では、すべての用法は一致しているように見えます。

 シンギュラリティについては、これが近い将来に到来するのかどうかという問題、シンギュラリティが社会に与える変化が好ましいものであるのかどうかという問題などが情報科学の専門家や技術者によって繰り返し取り上げられています。そして、この事実は、現在の社会がAIに与える重要な位置を雄弁に物語ります。

 ただ、冷静に考えるなら、シンギュラリティというのは、実に疑わしい概念であり、今のところは、厳密な規定のないまま、粗雑に、かつ、漫然と使用されている流行語に過ぎないように思われます。

 たとえば、シンギュラリティにおいて、AIは、人間の知性や能力を乗り越えます。(これがシンギュラリティの定義です。)けれども、AIが乗り越えるはずの知性や能力とは一体何であるのか、何が知性や能力に含まれ、何がここに属さぬものであるのか、この標識は、少なくても今はまだ、「シンギュラリティ」という言葉を使う人によりそれぞれまったく恣意的に設定されており、何の合意も認められないように見えます。

 いや、それ以前に、AIが人間の知性や能力を「乗り越える」とはどのような事態を意味するのか、という点すら、現在はまだ曖昧です。

 AIが人種差別的な発言を「出力」すると、多くの人は、これをAIの欠陥として評価します。このようなAIは、まだ人間を乗り越えてはいないと見なされます。しかし、現実には、人種差別的な意見の持ち主は、世の中にいくらでも見出すことができます。人間の知性に人種差別への傾向が帰属しているという想定は、決して否定することができません。そして、AIは、人間に固有のものである(かも知れない)このような傾向を学習して正確に出力したのであり、この点において優秀であり真っ当であると評価することができないわけではないように思われます。

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