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ボートマッチ(vote match) の効用について

by 清水真木

ボートマッチの表向きの役割

 国政選挙が近づき、各政党の政策が公表されると、各政党が提示する政策と有権者一人ひとりが好む政策が重なる度合いを測定するアンケート形式のサービスがネット上にいくつも姿を現します。このサービスには「ボートマッチ」(vote match) の名が与えられており、選挙での投票先を決める手がかりを得る手段の一つとして主にマスコミによって提供されています。

 私は、昔から、気になるサービスが登場すると、金銭的な負担がなく、個人情報を過度にさらさずに済む範囲において、少しだけいじってみることにしています。このボートマッチについても、これを提供するサイトが私の目に触れるようになった10年ほど前から、選挙のたびに複数のボートマッチのサイトでアンケートに答えてきました。

ボートマッチの結果は選挙の争点によらない

 ただ、最近の何回かの大規模な選挙のたびにボートマッチを試してみてわかったことがあります。それは、時期が異なり、選挙の性質が異なり、争点が異なっても、少なくとも国政選挙に関するかぎり、私がもっとも好む政策を提示するとボートマッチが判定する政党がいつも変わらない点です。私の場合、つねにもっとも高い一致を示すのは国民民主党です。私がボートマッチを試したどの国政選挙においても、ボートマッチのサービスを提供するサイトはすべて、投票先として私に国民民主党を勧めました1

 ボートマッチは、表面的には、個別の政策の好き/嫌いに関する複数の質問への回答にもとづき、政党と私(つまり有権者)のあいだの政策の一致を数値で示しているように見えます。したがって、理屈としては、私のもっとも好む政党が選挙のたびに変化する可能性があります。しかし、少なくとも私に関するかぎり、ボートマッチの判定はつねに同じです。少なくとも、前回の参議院選挙までの数年間は変化せず、私がもっとも好む政策を提示する政党は国民民主党に固定されていました。

好みの政党はやがて1つに収束するはず

 私ひとりの経験を一般的な法則に拡張してここで何かを強く主張するつもりはありませんが、選挙のためにボートマッチから異なる政党を勧められるような人がいるとしても、それはむしろ少数派であり、同一の有権者の回答に対するボートマッチの最終的な判定は選挙にかかわらず同一となるのが普通ではないかと私は想像しています。ボートマッチが選挙のたびに異なる政党への投票を勧めるような有権者が現実にいるとしたら、このような有権者こそ、本当の意味における「無党派層」であるに違いありません。

 ボートマッチが求めるのは、複数の争点に関する意見を個別に表明することだけです。しかし、これは、実際には、自分が持っているはずの漠然とした「社会/政治観」を少しずつ自覚するプロセスでもあると言うことができます。また、それぞれの政党が掲げる個別の政策がその政党に固有の「社会/政治観」の記号であるとするなら、ボートマッチは、私たち一人ひとりが「可能的に」不知不識に普段から支持しているはずの政党を教えてくれるものであるに違いありません。だから、ボートマッチをある程度以上の期間にわたり繰り返し利用することにより、政策の好みが決まった政党――私の場合は国民民主党2 ――が提示する政策のパッケージへと収束して行くことになるように思われます。私は、ボートマッチの効用をこのように理解しています。

  1. 私の好みに2番目に合致する政党として名が挙げられるのは、日本維新の会または自由民主党のいずれかであり、これは、ボートマッチのサイトによって一定しません。ただ、これら3つ以外の政党を提案されたことは、これまで一度もありません。 []
  2. もちろん、私は、これまでのところ、(個別の候補者については何とも言えないとしても、)少なくとも政策に関するかぎり、国民民主党を個人的には肯定的に評価しています。その主張のすべてに賛成しているわけではありませんし、政治に不案内な私にとっては完全に意味不明な――つまり、問題の所在すらわからない――主張もあります。しかし、少なくとも今のところは、私にとり、国会に議席を持つすべての政党のうち、国民民主党がもっとも抵抗感なく投票することのできる政党ということになるようです。この点において、少なくとも2024年10月現在、ボートマッチの判定は妥当であるように思われます。というのも、私のような、いわば「平場」にいる有権者の目に、この政党は、小泉政権以来の悪しき「劇場型政治」と距離をとっている勢力と映るからです。
    劇場型政治は、政治的リテラシーに乏しい地方の有権者、情報収集をテレビに依存する「情弱」の有権者などを、選挙のたびに、いわば底引き網漁のように根こそぎすなどるのにはいくらか有効であるかも知れません。しかし、それとともに、政治について知識も見識もない私には、この手法は、「どのような政策もワンフレーズで示すことができるはず」「政策を理解するのに努力は要らない」「大衆が直観的に同意することができない政策はすべて悪である」というような勘違いを蔓延させ、日本の政治的な風土を荒廃させてきたように見えます。
    幸いなことに、自民党は、政権に復帰してからのこの約10年間で、身も蓋もない劇場型政治から脱却し、現在では、政策ではなくパフォーマンスを手段とする集票は、むしろ左派政党の専売特許のようになっています。
    私は、有権者の機嫌をとるふりをしながら実際には有権者を愚弄し愚民化しようとする劇場型政治が大嫌いです。私は、政治には何の見識もありませんが、それでも、「国民の機嫌をとる政治」の臭いには敏感なつもりです。そして、この嗅覚の助けを借りながら、節穴のような目を見開いて政治の世界を眺めています。 []

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