※この文章は、「歴史の書き換えについて(その1)」の続きです。
たとえば、私たちは、現在進行中のフィリピンの大統領選挙において、歴史の(気持ちの悪い)書き換えを目撃しています。この選挙に出馬しているフェルディナンド・マルコスの長男は、1986年に倒されたマルコス政権の独裁体制下の圧政を「なかった」かのように語り、そして、不幸なことに、この書き換えの試みは、今のところフィリピン国民の多数派に受け入れられているように見えます。
私が特に心の底から気持ち悪く感じたのは、マルコスの長男が浸透させようとしているのが、そして、実際に受け入れられているのが、「マルコス政権下ではひどいこともあったが、それと同じくらいよいこともあった」という主張ではない点です。(これだけなら、歴史の歪曲には当たりません。)そうではなく、彼とその支援者たちが拡散させ、そして、受け入れられつつあるのが、「マルコス政権下では弾圧も虐殺も行われなかった」という主張である点です。現在のフィリピンでは、マルコス政権下の弾圧を経験した国民が少なくなく、この主張が虚偽であることなど、誰でも簡単に証明することができるはずです。それにもかかわらず、このような虚偽が——事実を押しのけて——社会に受け入れられて行くことに、私は寒気を覚えます。
自分の望む方向に社会を動かすために歴史を歪曲したり、都合の悪い事実を隠したりすることは、紛れもない歴史修正主義であり、現在フィリピンにおいて進行しているのは、歴史の修正主義的な書き換えに他なりません。
このような歴史の乱暴な書き換えが現在の日本において行われることはないかも知れません。しかし、フィリピンにおいて歴史の書き換えと(歴史に学ぶことを忘れた)先祖返りが成功するなら、この事実は、同じように、たとえば1970年代にカンボジアで行われた大虐殺が「なかった」ことにされたり、国民党支配下における台湾の「白色テロ」時代が「なかった」ことにされたり、スターリン時代のソ連の恐怖政治や粛清「なかった」ことにされ、当時の社会がすばらしいものとして記述されるようになったり、しかし、驚くべきことに、中国の文化大革命が肯定的に評価されたりするようになる可能性が十分にあることを私たちに教えます1 。
フィリピンの大統領選挙は、事実がフィクションによって簡単に上書きされうることを生々しい形で示しました。上で述べたように、私は、「歴史修正主義」という手垢にまみれた左翼用語を好みません。それでも、私は、社会全体の意思決定をミスリードするような歴史の書き換えを阻止することは絶対に必要であり、また、政治的な理由による歴史の勝手な書き換えに対し、公共の空間において反対の声が挙がることが、成熟した民主主義の証でもあるとも考えています。
現代の日本人は、少なくともこれまでのところ、本格的な歴史修正主義をの経験を持ちません。それだけに、私たちは、日本の社会をよりよいものにするために、諸外国で進行しつつある歴史の書き換えから目を背けることなく、むしろ、これを反面教師とすることが必要であるように思われます。
- ことによると、すでに現在、それぞれの国内向けにはこのようなプロパガンダが進行しているかも知れません。 [↩]