Home やや知的なこと 田舎者の逆襲、あるいは、「同性婚反対」と「反ワクチン」について(後篇)

田舎者の逆襲、あるいは、「同性婚反対」と「反ワクチン」について(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「田舎者の逆襲、あるいは、「同性婚反対」と「反ワクチン」について(前篇)」の続きです。

 しかし、少し冷静に考えるなら、民主主義の社会では、意見を異にする人々の共存が第一の前提となります。手垢のついた表現をあえて用いるなら民主主義と「多様性」は一体をなすのです。

 当然、民主主義のもとでは、私の権利や利益が他人から認められているかぎり、これと引き換えに、他人の権利や利益もまた、私に害が及ばない範囲でただちに承認されなければなりません。周囲の人間が権利を行使し、利益を手に入れることに強烈な不快感を覚えるとしても、です。民主主義を承認するとは、多様性を承認することであり、多様性を承認することができるためには、意識に姿を現す「不快なもの」に耐える力が必要となります1 。このような観点から眺めるなら、同性婚に反対したり、ワクチンの接種に反対したりするのは、民主主義の社会が要求する「不快への耐性」に特別に乏しい人々であることになります。

 ところで、自分とは利害関係がない他人の領域に土足で入り込み、「あれをしろ」「これをするな」などと指図する人間は、一般に「田舎者」と呼ばれます。田舎者というのは、多様性とこれに由来する不快への耐性を欠く——したがって、他人に対する最低限の礼儀において欠けるところのある——人間のことであり、これが「『田舎』者」と呼ばれるのは、このタイプの鬱陶し人間が都会よりも田舎に多く見られると一般に信じられているからにすぎません。

 もちろん、都会よりも田舎の方が、人間的な環境の流動性や多様性に乏しく、住民の多くに不快への耐性がないと想定するのは自然であるように思われます。

 民主主義というのは、高度に都会的な心性を前提とするものであり、この意味において、人工的、人為的、実験的な政治体制です。民主主義の社会を維持するためには、それなりに「高い意識」が必要となります。
 以前から、このような心性を持つ者は、サイバー空間、特にSNS上にはいくらでも認めることができました。SNSというのは、当初から「田舎者たちの住処」であったのかも知れません。

 しかし、この数年、同性婚への反対や反ワクチンに代表される言動、つまり、不快への耐性を持たない典型的な田舎者の言動が政治的言論空間の前景に姿を現し、そして、私には、その声は、日を追うごとに大きくなっているように見えます。きっかけとなったのは、2016年のアメリカ大統領選挙であり、これ以来、社会の周縁にとどまっていた「不快への耐性」を欠いた者たちの、つまり、田舎者たちの逆襲が始まったように思われます。

 「同性婚についてどう思うか」と問われるなら、私は、個人的なレベルでは「興味ない」と答えます。しかし——必要となる法的な整備の規模に関する理解はまちまちである2 ——としても、田舎者の逆襲が止みそうもない状況のもとでは、反ワクチンが斥けられなければならないのと同じ理由により、同性婚の権利を制度として確保することは、政治的に優先されるべき課題と見なされなければならないように思われます。

  1. もちろん、「不快なもの」には、「ただ不快であるだけのもの」と「不快であり、かつ有害なもの」の2種類が区別されます。そして、後者については、オープンな議論による合意形成が必要となるでしょう。しかし、「不快への耐性」に乏しい者には、両者を冷静に区別することができません。彼ら/彼女らが、自分にとって気に入らないことをするというだけの理由により、他人の自由を不当に制限したり、他人を支配しようとしたりするのはそのためです。 []
  2. 同性婚を合法にするためには、民法と関連する法律を改正すればよいという考え方と、憲法の改正が必要という立場があります。 []

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