昨日、次のような文章を書きました。以下は、その続きです。
ヘーゲルに従うかぎり、哲学の意味への問いは、すでにそれ自体として、哲学の問いであり、哲学は、「哲学とは何か」という問いから着手されなければなりません。また、哲学の意味を問うことは、それ自体が哲学の遂行であるばかりではなく、哲学の遂行は、その具体的な姿がどのようなものであるとしても、最終的には哲学の意味を明らかにする試みの途上に位置を与えられます。すなわち、哲学の実践において問われるすべての問い——「先天的総合判断はいかにして可能か」であれ「実体とは何か」であれ——は「哲学とは何か」という巨大な問いをつねに遠望しながら問われる場合においてのみ哲学の問いとなるのであり、私たちが伝統的に哲学に帰属させてきたこれらの問いは、哲学の意味への途上において出会われるかぎりにおいて哲学の問いとしての資格を与えられることになります。換言すれば、「哲学とは何か」という問いが有意味であるかぎりにおいて、哲学の実践もまた同時に有意味となるのです。
そして、「哲学とは何か」という問いをもって哲学が始まり、この問いを最終的な標的として遂行されるのが哲学であるなら、また、哲学が「哲学とは何か」という問いと一体であるなら、哲学の意味を明らかにする試みの価値は、もはやあらためて言うまでもないことになります。ヘーゲルにとり、上記の文章において私が区別した1.2.3.は同じ1つの実践の3つの側面にすぎないのです。
実際、ドイツ語圏およびフランス語圏の多くの哲学者にとり——ヘーゲルほど自覚的ではなく、また、露骨でもないとしても——「哲学とは何か」という問いに対して与えられるはずの答えが、哲学の問いを哲学以外の問いから区別する標識となると考える点においては一致しているように見えます。