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クラシック音楽を「攻略」する話

by 清水真木

私には、普段の生活の中で音楽を聴く機会はありません。少なくとも、音楽を聴きながら本を読んだり文章を書いたりすることはできません。意味を持たない単なる騒音にはいくらか耐えられますが、少しでも集中を必要とする環境で意味のある音、つまり音楽が流れると、気が散って仕事になりません。音楽が聞こえてくると、目の前の仕事から注意が逸れ、音楽を「傾聴」してしまうからです。(したがって、BGMが流れているような喫茶店での集中を必要とする作業は避けるようにしています。)

私の場合、知的活動にとってもっとも好ましいのは、風や雨の音、自動車が通る音など、周囲の環境を教える音がかすかに聞こえる状態であるように思われます。とはいえ、完全な無音の空間、たとえば、窓のない防音の部屋に身を置くと、周囲の状況が気になり、むしろ作業に集中することができなくなるかも知れません。

また、本を読んでいるわけでもなく、文章を書いているわけでもない時間でも、たとえば外出中に、あるいは、テレビを観ているときに音楽を聴くことはありません。私が音楽をあまり聴かないのは、音楽を聴くこととは両立しない活動が1日の大半を占めているからであることになります。

とはいえ、私は、クラシック音楽なら多少は聴きます。それは、クラシック音楽を聴くのが「たのしい」からでは必ずしもありません。

哲学の研究者の中には、「クラシック好き」が多く、世間話のついでにクラシック音楽が話題になることは珍しくありません。ただ、私自身は、もともと、音楽全般に興味がありませんでした。私の家族にも——軍歌好き、演歌好き、歌謡曲好き、アニメソング好きはいましたが——「クラシック好き」はいませんでした。

そのため、卒論のテーマをニーチェに決めた——1990年の初めごろです——とき、音楽、特にクラシック音楽の知識が何もないとニーチェを理解することができないことに初めて気づき、それ以来、一般に知っていることが当然とされるような曲を手当たり次第に聴き始めました。私は、クラシック音楽を純粋な「お勉強」として聴き始めたことになります。また、お勉強としてクラシック音楽に触れるようになったときには、これが趣味として続くとはまったく予想していませんでした。(「クラシック通」の人々の「通ぶったこだわり」がすごくいやで、私には、「クラシック通」になるつもりはありませんでした。今でもそのつもりはありません。)

以下が、私が「お勉強」として試みた聴き方です。

まず、ニーチェが言及している作曲家の作品を聴き、その後、音楽史の穴を埋めるようにその他の作曲家にも手を広げて行きました。当然、ヴァーグナーの序曲や有名な箇所を集めたCDを最初に手に入れました。

私がクラシック音楽を聴くのは、西洋の音楽史の最低限の知識を身につけるため、特に、曲のタイトルを見て、そのメロディの一部でもすぐに思い出すことができるようになるため、あるいは、反対に、メロディの断片を耳にして、すぐに曲名と作曲家を言い当てることができるようになるためでした。「通」が支配する「クラシック音楽」という巨大な暗黒大陸を完全な初心者として攻略することが目標でした。

とはいえ、このように実際的(?)な目標が明確であった分、その聴き方も、おそらくは相当に特殊なものとなりました。

  1.  目当ての曲が収められたCDを1枚購入します。「誰の指揮」とか「どこのオーケストラ」とか、そのような情報に関する「通ぶったこだわり」はすべて捨て、最初に見つけたも適当な値段のもののを購入します。
  2.  CDの中身をパソコンにコピーし、音楽プレーヤーでトラックを1つずつ何十回も再生して大体のメロディを覚えます。すべてのトラックを繰り返し聴いたら、次に——交響曲に代表される長い作品で、順序が大切である場合——これを正しい順序に並べてさらに何十回も再生します。
  3.  音楽を聴くときには、知的作業は何もせず、毎日時間を決めて音楽に注意を集中します。私にとり、クラシック音楽は、「楽しむ」ものではなく「攻略する」ものだからです。当然、最初のころは、音楽を聴くのが苦痛でした。

それでも、このような作業を数年にわたって続けていると、ある時点で、クラシック音楽の音に耳が慣れ、音楽を聴くのがラクになります。たとえば、初めて耳にしたピアノ曲でも、それが誰のものであるのか、あるいは少なくとも、いつごろのどの地域の作曲家の手になるものであるのか、おおよそ見当がつく場合が多くなるからなのでしょう。(もちろん、バッハとショパン、モーツァルトとドビュッシーをたがいに取り違えない、ある交響曲を耳にしたとき、ベートーベン以前のものか、それともベートーベン以後のものかが聴いただけですぐにわかる、というような程度のことですが。)

とはいえ、このような聞き分けができるとは、「作曲家の個性を音楽史のパースペクティブの中で漠然と捉えられるようになった」ことを意味します。このような段階に到達したことをもって「クラシックに詳しくなった」と言えるかどうかは微妙です。また、私は、「指揮」や「オーケストラ」には今でも関心がなく、録音の質がある程度以上であるなら、同じ曲の演奏はどれも同じに聞こえます。(もちろん、比較するつもりで聴けばわかりますが。)

音楽を聴くことの「たのしさ」なるものの正体は、今でもよくわかりません。また、クラシック音楽を完全に制覇したと言うだけの自信もありません。もちろん、「クラシック通」のことは相変わらず嫌いです。

それでも、「知識ゼロの完全な初心者」のレベルは卒業することができたのではないかと考えています。たしかに、今では、30年前の私のような「知識ゼロの完全な初心者」に向かって、「サン=サーンスの交響曲3番の構成は・・・・・・」「チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第1楽章は・・・・・・」などと上から目線で偉そうに言うことができます——両方とも、クラシック好きなら誰もが知る「必聴」の曲ですが——が、それは、「攻略」の努力のおかげです。

なお、私は、同じような方法により歌謡曲、ロック、ジャズなどの攻略を試みましたが、今のところあまり上手く行っていません。曲が生産されるスピードが聴くスピードを上回ること、優先的に聴くに値するものがクラシック音楽の場合ほど明確ではないこと、など、いくつもの理由が考えられます。

「クラシック音楽」では、その定義により——「新譜」つまり新たな演奏が生まれることはあっても——「新曲」が産み出されることがありません。「クラシック」なものが「クラシック」なものとして世に登場するなど、自己矛盾以外の何ものでもないでしょう。

クラシック音楽は、本質的に完結したジャンルであり、暗黒大陸なら暗黒大陸なりに、一応の地図がある、この点が攻略の条件だったことになります。この意味において、必要に迫られて聴き始めたのがクラシック音楽であったことは、私にとっては幸運であったのかも知れません。

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