Home やや知的なこと 年間の購入金額にもとづく客の選別について

年間の購入金額にもとづく客の選別について

by 清水真木

 笛は演奏されるためにあるものであるから、演奏が巧みな者のもとにあるべきである。アリストテレスは、『政治学』においてこのように主張します。

 笛が与えられるのが、これをもっとも適切に演奏する者であるとするなら、他のモノについてもまた、事情は同じであるに違いありません。すなわち、包丁は、これを用いて適切に調理する者のもとにあるのが適当であり、セメントは、これを適切に加工することができる者のもとにあることにより初めてその真価を発揮することになります。

 ところで、私たちは誰でも、買い物した客に「ポイント」を与える小売店が少なくないことを知っています。このサービスは、それ自体としては昔からあるものです。

 しかし、私の記憶と理解に間違いがなければ、バブルの崩壊以降、このサービスは、微妙な、しかし、無視することができない変質を遂げたように思われます。

 広い意味における「ポイント」は、客にとり、同じ店で繰り返し買い物するインセンティブになります。この点は、以前から同じです。

 気になるのは、「月間の購入金額」や「年間の購入金額」などにもとづいて客を選別する小売店が最近30年のあいだに増えたように見えることです。単位時間あたりに落とすカネが多い客は、「一見さん」であろうと挙動不審であろうと、「得意客」と見なされます。そして、優先的に接客を受けたり、付随的なサービスを享受したりすることになります。これに対し、単位時間あたりの購入金額が少ない客は、「3世代前からの客」であろうと「馴染みの客」であろうと、優遇の対象とはならなくなります。

 たとえば、年間の購入金額が10万円を超えると、次の年に付与されるポイントが増え、次の年に購入金額が100万円を超えると、翌々年には、さらに多種多様な優遇が受けられる・・・・・・、このような仕組は、私が承知している範囲では、最近30年くらいのあいだに急速に普及したものです。

 このような仕組のもとでは、さしあたり——「昔からの客」「馴染みの客」を持たない完全に新しい店については話は別ですが——「ロイヤルティ」を持っていたはずの「昔からの客」「馴染みの客」が離れることにより、小売店が長期的な不利益を被る可能性があります。

 しかし、この仕組が毀損するのは、客と店の関係ではなく、むしろ店と商品の関係であると私は考えています。

 ある靴屋で1足10万円の革靴を購入した客がいるとします。靴というのは、定義により、一人が一度に1足しか履くことができません。また、1足10万円もする革靴は、それだけ丈夫であり、メインテナンスを怠らなければ長期間にわたり履き続けることが可能であると考えるのが自然です。したがって、ある年に10万円の革靴を購入した客が、翌年にも同じ靴屋で10万円分の靴を購入する可能性は、ゼロではないとしても、きわめて低いはずです。ことによると、同じ客が同じ店で自分のために次の靴を購入するのは10年後かも知れません。

 しかし、この靴屋が年間の購入金額にもとづいて客を選別しているのなら、10万円の革靴を10年に1回購入するだけの昔からの客よりも、10万円の靴を一度に10足購入して合計100万円を落とす一見の客の方が優遇されることになります。店に落とす金額の多寡がすべてを決するかぎり、客が何をどのような理由で買おうと店には関係がないのです。

 けれども、アリストテレスが理解するように、すべてのモノが、これを適切に使用する者に配分されるべきであるとするなら、そして、1人が同時に1足しか履くことができないのが靴の運命であるなら、同じ靴を一度に10足購入する客がその靴を適切に使用する者である可能性は決して高くはないに違いありません。

 一方において、購入された靴は、コレクションの対象になるか、転売されるか、あるいは、そのまま廃棄されるか・・・・・・、いずれにしても、購入した客のもとでその本来の役割を発揮することはないように思われます。

 他方において、靴屋の方は、10万円の同じ靴を一度に10足購入する行動が不自然であることを理解し、商品が本来の役割を発揮しない可能性があることを想定しながら、それにもかかわらず商品を販売し、かつ、この不自然な購買行動を高く評価せざるをえないことになります。

 このとき、みずからが売る靴を——アリストテレス的な意味において——この靴にふさわしい客の手もとに送り届けることは、靴屋の仕事ではなくなります。そして、靴は、靴屋にとり、換金されることのみに価値がある単なる「ブツ」に成り下がり、靴屋には、靴に関する知識も愛着も求められなくなります。これは、「ブツ」としての覚醒剤とその売人のあいだに認められる関係と同じ性質のものです。

 適切な商品を適切な消費者に配分することは、社会が小売店に期待してきた役割の1つであると私は理解しています。しかし、「年間の購入金額」「月間の購入金額」などにもとづいて客を選別することにより、小売店は、このような役割をみずから放棄し、単なる「売人」になる道を歩み始めているように私には思われるのです。

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