私は、本を手にとることを強要しても読書の習慣を身につけさせることが不可能であると考えています。これは、次の文章で述べたとおりです。
しかし、私は、本を読まないのは大学生に限らないこと、「本を読め」と学生に向って叫ぶ立場にあるはずの大学の教員もまた、読書の習慣を必ずしも身につけてはいないのではないかという疑念を最近になって抱くようになりました。(「今ごろ気づいたのか」「気づくのが遅すぎるよ」などの反応が聞こえてくるような気がします。実際、そのとおりかも知れません。)
日本語には「専門バカ」という言葉があります。自分の狭い専門分野には詳しいものの、専門分野の外部の学問や社会生活については知識も関心も常識もない状態、あるいは、このような状態に陥った者が「専門バカ」と呼ばれます。そして、読書の習慣を持たぬ大学の教員とは、この野放しの「専門バカ」が行き着いた形態の1つであるように思われます。換言するなら、「本を読まない大学教員」という存在は、本を読まない当人の自覚、あるいは自覚の欠如によって産み出されたものであるというよりも、現在の自然科学および社会科学において支配的な研究の体制の必然的な帰結であると私は考えています。
もちろん、「専門バカ」の名にふさわしい研究者は、以前から大学にはいくらでもいました。ただ、このような「専門バカ」は、特定の学問領域、つまり、自然科学に偏在し、文系に「専門バカ」はいない、というのがかつての常識でした。なぜなら、少なくとも文系に分類される学問分野では、理系とは異なり、広範な分野への目配りを前提としなければ勉強を一歩も前に進めることができないと一般に考えられていたからです。そのため、人文科学系の研究者のあいだでは、「理科バカ」という言葉が「専門バカ」の同義語として流通していました。(嘲笑の対象として特に好んで取り上げられていたのは数学の研究者です。)
ところが、最近では、広い意味における文系の学問分野にもまた、「専門バカ」が散見するようになりました。それとともに、「専門バカ」の度合いもまた、以前よりも深刻になっているように思われます。これから述べるように、今ではもう、「バカ」の程度に関し底が抜けてしまっているように見えるのです。
以前の「専門バカ」の場合、「専門外のことについて知識も関心も常識もない」とは言っても、その欠落には限度がありました。すなわち、「専門バカ」は、「知識も関心も常識もない」ながらも、「知識」や「関心」や「常識」の欠落を自覚あるいは予感してはいたように思われます。自分の専門外の多様な学問分野の研究活動やその成果、社会生活全般を支える規範や知恵のようなものに対し最低限の敬意がどこかに遺されてはいたのです。(大学の教員は、「研究者」であるとは言っても、特定の分野の単なる「専門家」にとどまることは許されない、という無言の圧力のようなものが支配的だったのかも知れません。)
これに対し、現在の「専門バカ」は、一方において、自分が専門とする狭い分野における研究のパラダイム、つまり研究の「お作法」に精通しています。このかぎりにおいて、彼ら/彼女らは、限りなくクレバーであり、狭い分野の内部においてそれなりの位置を占めることができます。この点は、昔の「専門バカ」と違いありません。
しかし、他方において、今の「専門バカ」には、そのパラダイムが一切通用しない知の領域がありうることが次第にわからなくなっているように見えます。専門分野の内部に自覚的に退却してしまったせいか、この点に関し、彼ら/彼女らには自覚がないばかりではなく、予感すらないように見えます。
彼ら/彼女らには、自分が専門とする分野の外部など存在しないのと同じであり、不案内な諸分野への敬意も、これらに目配りする努力も不要であるという暗黙の了解が共有されているように思われてなりません。そして、私は、「本を読まない大学教員」の誕生は、このような態度の帰結の1つであると考えます。