※この文章は、「『専門バカ』の奈落について(その1)」の続きです。
ここまで読んできて、「これは遅くとも20世紀後半以降に進行してきた学問領域の細分化や過剰な分業の問題にすぎないのではないか」という感想を持つ人が、あるいはいるかも知れません。しかし、私は、「専門バカ」の「バカ」の程度に関し底が抜けたこと(、あるいは、「本を読まない大学教員」)とは、単なる細分化や分業とは性質を根本的に異にする問題であると考えています。というのも、ここには次のような事情があるからです。
現在では、自然科学のほぼすべて、および、社会科学の相当な部分において、研究成果の発表は、万人がアクセスしうる出版物としての著書ではなく、専門的な学術雑誌に投稿される論文によって行われ、その価値は「被引用回数」なる指標——アカデミックに装われた「いいね!」——によって測定されるようになりました1 *1。
このような分野の研究者は、一方において、自分の研究業績を発表するのに、原則として専門家にしかアクセスが許されない学術雑誌への論文の投稿という手段を用い、他方において、自分自身の研究において利用可能な他人の研究業績を参照するのにもまた、同じように、学術雑誌に投稿された論文に依らざるをえません。少なくとも上述の範囲に含まれる研究分野では、学術論文を読み、学術論文を書くというこの単純なサイクルの内部で研究活動が完結するようになり——また、多くの研究者には、それ以外の活動に手を出す余裕などないでしょう——そのせいで、経験の拡張を期待して読書する動機と時間が失われたのです。
このような分野では、現在では、「本を手にとる」という動作が研究活動のプロセスから姿を消しました。実際、少なくとも自然科学では、書物の体裁を今でも失っていないのは啓蒙書、教科書、入門書の類だけであり、「専門書」が研究者を裨益することはもはやない、という分野の方が普通でしょう。
研究を「世に問う」という表現があります。「世に問う」とは、研究の成果を著書にまとめて公刊し、知的な読者公衆の審判を仰ぐことを意味します。しかし、現在では、自然科学のほぼすべてと社会科学の大半では、この古風な表現は空虚に響きます。
実際、人文科学とは異なり、自然科学や社会科学については、その最先端の研究が、その分野について立ち入った知識を持たない知的な読者公衆を——ジャーナリスティックな解説や啓蒙書による媒介なしに——直接に裨益することはもはやありません。
一般に、専門的な学術研究にとり「世に問う」ことがその出口であるとは、同じ分野の専門家ではなく、知的な読者公衆が研究の最終的な審級となることを意味します2 *2。そして、「世に問う」ことで研究の価値が決まるかぎり、あらゆる学問分野の専門家は、オーディエンスとしての知的な読者公衆が暗黙のうちに共有しているはずの(たえず少しずつ変化する)「知の地図」をあらかじめ把握し、その「地図」上における自分の位置を指定することができなければなりません。この意味において、自分の専門と直接には関係ない書物、特に、それぞれの時代の知的公衆が手にとっているはずの書物群を手にとることは、研究の不可欠の一部を形作ります。
しかし、現在では、自然科学や社会科学に関するかぎり、研究を「世に問う」ことは不要となりました。そして、その分野を専門としない知的公衆を裨益するという目標が見失われるとともに——あるいは、除去されるとともに——本来は研究と一体のものであったはずの読書もまた、その意義を失って行くことになるでしょう。「本を読まない大学の教員」というのは、自然科学や社会科学が社会において占める位置の変化の必然的な帰結として受け止めるのが自然であると私は考えています。
- 『実践 日々のアナキズム——世界に抗う土着の秩序の作り方』において人類学者のジェームズ・C.スコットが指摘するように、学術研究のこの体制自体が学術研究を大きく歪め、その質を毀損しているのですが、この点は今は措きます。
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- 知的公衆は知の単なる受動的な消費者ではありません。研究者と知的公衆のあいだには肯定的な相互作用が認められます。 [↩]