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読書の「沼」について

by 清水真木

 しばらく前、次のような文章を書きました。(下に続く)

 以下は、これに関連する話です。

 学生に、生徒に、あるいは、自分の子どもに読書の習慣を身につけさせるにはどのようにしたらよいか。上の文章で述べたように、本をたくさん読ませるだけでは、読書の習慣を身につけさせることは不可能です。

 そもそも、長期間にわたりそれなりにたくさんの本を読むことを読書の「習慣」と呼ぶことは、必ずしも適切ではないと私は考えています。

 私は、自分が「読書家」であるとは必ずしも思いません。実際、世間において「必読書」などと言われている書物のリストには、私が読んだことがない本、それどころか、表題すら知らないような本がたくさんあります。それでも、私は、これまでの人生において、本をそれなりにたくさん読んできました。

 とはいえ、私は、本を「習慣」として読んできたわけではありません。また、読書を生活の一部にしている人々の多くも、習慣的に読書しているわけではないはずです。

 私たちは、本を読む「習慣」を身につけるために努力し、努力の結果として「習慣」を身につけ、そして、「習慣」のおかげで本を毎日手にとる生活を続けている・・・・・・、というモデルを想定しがちです。しかし、現実には、このモデルのとおりに「習慣」として読書するようになった人は、皆無ではないとしても、ごく少数ではないかと想像します。

 むしろ、読書を続けている人の多くは、何かの本を偶然に手にとったことがきっかけで読書の「沼」にはまり、それ以来、そこから抜け出そうと思っても抜け出せなくなってそのまま現在にいたっているはずです。つまり、本当の意味における「読書家」なるものがこの世にいるとしたら、そのような人々は、「習慣」として読書しているのではなく、読書の「沼」から抜け出すことができずにいるだけなのです。(下に続く)

 私自身、子どものころは、本を読むよう周囲から繰り返し命令されても、漫画と漫画雑誌以外の印刷物を頑として受け付けませんでした。運命を変えたのは、小学5年生の秋、本屋で偶然に手にとった1冊の、読書初心者にとっては分厚い文庫本です。この文庫本を一晩で最後まで読んだとき、私は読書の「沼」に引きずり込まれました。そして、それ以来、現在にいたるまで、膨大な時間と体力と費用を本を読むことに費やしてきました。

 私は、学生に読書をすすめるときには、当然、その効用を強調しますが、自分自身は、純然たる実用書を除き、本を読むことに何らかの効用を期待してはきませんでした。当然、私にとり、読書が「沼」であるかぎり、私は、読みたい本しか読みません。

 読書の「習慣」などと一般に呼ばれているものの真相は、読書の「沼」であり、読書の「習慣」を身につけるとは、読書の「沼」に落ちることに他なりません。学生、生徒、子どもに本を読ませたいのなら、まず、私たちが「沼」に落ちること、そして、学生、生徒、子どもが「沼」に落ちてくるのを辛抱強く待つ以外に途はないように思われるのです。

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