※この文章は、「AIにはものを作る能力があるか(その1)」の続きです。
これに対し、人間の「製作」では、「ラーメンを作ろうと思って野菜を切っていたが、気が変わって寄せ鍋を作ることにした」「肖像画を描き始めたが、何となく飽きてしまったから途中で放棄した」「粘土をこねて花瓶を作ったが、焼いてみたら粉々になってしまった」などの事態がいくらでも起こります。たしかに、これらは、「失敗」「未完成」「不完全」であるかも知れません。しかし、このような失敗、未完成、不完全などが起こりうるのは、動物の「もの作り」とは異なり、人間の製作が、そのプロセスにおいても産物においても、本質的に自由であるからに他なりません。
人間の「製作」には最終的な完成というものがなく、人間の手になるものはつねに未完成であり、途上であり、未来に向かって開かれていると言うこともできるでしょう。
人間にのみ「新しいもの」「見たことがないもの」を作ることができるのもまた、動物の「もの作り」が本質的に自動作用であるのに反し、人間の「製作」が自由であるからなのです。人間には「藝術作品」を産み出す能力がありますが、動物が作るのは、せいぜいのところ、「人間が同じものを作ったらきっと『藝術作品』に分類される」ものにすぎません。
この意味において、動物は、ものを作っているのではありません。動物の「もの作り」は、それ自体が自然現象であり、人間の「製作」からは厳密に区別されなければならないように思われます。
そして、同じことは、AIを搭載したロボットについても言うことができます。
何年か前から、音楽を作ったり、絵画を描いたり、小説を執筆したりするAIについてのニュースを目にするようになりました。これらは、人間の藝術家の技術を正確に模倣し、少なくとも表面的な技術に関するかぎり、すぐれた「作品」を産み出しているように見えます。
けれども、AIを搭載したロボットには「自由」がありません。何かを作らない自由がないばかりではなく、気が変わって途中で作るものを変える自由もなく、作るのを途中でやめる自由もありません。AIには、自分が作ったものの完成/未完成すら判定することができません1 。
アメリカの評論家のニコラス・カーは、下記の本において、AIの「シンギュラリティ」(技術的特異点)の問題に言及し、AIが人間よりも上手にそして速く仕事を処理することができるかぎり、シンギュラリティなど起こりえない、人間がAIに乗り越えられるのは、AIが「面倒くさい」という理由で与えられた仕事をサボったり、不注意でミスしたりするようになるときであるという意味のことを語っています。つまり、AIの性能がある意味において人間と同じレベルまで「低下」しないかぎり、AIが人間にとって代わることはできないという逆説がここには認められることになります。(けれども、そのような状態になったとき、それでもなお、AIが人間によって必要とされ続けるかどうかは微妙です。)
同じように、AIに本当の意味における「製作」が可能となるためには、AIは、人間と同じような自由を獲得し、気が変わったり、未完成のまま放置したり、謎の失敗作を得々として吐き出したりするようにならなければなりません。つまり、「人間よりも不器用なAI」2 なるものが登場するとき、AIは初めて人間と同じように「製作」していると見なされ、人間もまた、AIが産み出すものを人間的と認め、AIの産み出す「藝術作品」を本当の藝術作品として受け止めることになるでしょう。