しばらく前、次のような文章を書きました。
歴史的に見るなら、文字を読む作業の最初の姿は音読であり、西洋世界では、「読む」という言葉が黙読を想起させるようになるのは中世以降のことです。
しかし、発生論的に見るなら、私たちが何かを音読するときには、同じ文字列をその都度あらかじめ——つねに直前であるとはかぎらないとしても——黙読しているのが普通です。文字列を声に出して読むという作業は、これを黙って読む作業によって支えられていることになります。
とはいえ、音読が黙読に支えられているという事実は、「黙読が権利上音読に先立つ」ことを意味するものではないように思われます。
というのも、黙読には、「声を出さない音読」という側面が認められるからです。言語を形作る言葉のもとでは、意味(シニフィエ)と音(シニフィアン)が分かちがたく結びついています。この事実を考慮するなら、たとえ黙読しているときでも、音声から完全に自由になって文字列の意味を理解することなど不可能であることがわかります。黙読を基礎としない「純粋な音読」が現実的ではないのと同じように、「純粋な黙読」というのもまた不可能であることになります。
たとえば、文章を推敲するとき、私たちは、「声に出して読んだときに自然であるかどうか」という観点からたえず自分の文章を点検しています。つまり、声を実際には出さないとしても、「心の中で音読」しているのです。同じように、文章を書くこともまた、本質的には、「記されるはずの文字を想起しながら、これを心の中で音読すると同時に書き記す作業」として理解されるのが適当であるように思われます。
文字列の音読が可能となるためには、同じ文字列がつねにあらかじめ黙読されていなければなりません。同じように、黙読というのは、音声から解放されて意味を純粋に理解する作業なのではなく、つねに「可能的な音声」を心の中で響かせることにおいて遂行されるものなのです。