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ミニマリズムの始め方(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「ミニマリズムの始め方(前篇)」の続きです。

 ところで、上記の文章の冒頭からここまで私が挙げてきた書物はすべて、「片づけ」の方法を指南するばかりではなく、身の周りにあるモノを消去する作業が人生を好ましい方向に変える手段となることを強調する点において共通しています。また、手もとに残すモノから捨てるモノを区別する手がかりを自分自身に求める点でも、これらはすべて一致しています。遅くとも2000年代の終わりごろから、わが国で流通し始めた「片づけ」や「ミニマリズム」をめぐる言説の前提となる共通了解を一文に要約するなら、「本当の自分に正直になって身の周りにあるものを片づけることで、生産性を向上させ、幸福な人生を送ることができるようになる」となります。

 しかし、自分に対し完全に誠実になり、多少なりとも社会から距てられた「本当の自分」なるものを基準として生活を組織することができるとしても、本当の自分への還帰は、私たちを片づけへと必然的に向かわせるわけではありません。

 一方において、生活空間を片づけることは、他人の目に「片づいている」と映る状態をめがけて遂行されるものです。(片づけている私自身もまた、他人の中の1人です。)片づけの枠組は、社会によって決められているのであり、自分自身への誠実の帰結と一致しないことがありうるばかりではなく、この目標を実現する努力は、自分自身を裏切る危険、不誠実を私たちに強いる危険すらあります。自分らしい生活を実現する手段として遂行されるはずの片づけにより、個性を剥奪されたよそよそしい空間が生まれることがあるとしても、何ら不思議ではありません*1

 また、他方において、そもそも、片づけにおいて手もとに残すものを捨てるものから区別する基準となるはずの「本当の自分」、私たちが立ち返るべき「本当の自分」なるものがあるのかどうか、ハッキリしません。さらに、社会的なものや他人に由来するものから区別された「本当の自分」なるものが見つかったとしても、これが、モノの整理の基準となりうるほど力強いものであるのかどうか、私は、この点についてもまた、大いに疑問を覚えます。

 たしかに、私たちは1人ひとり、かぎりなく個性的です。しかし、この個性は、社会生活のネットワークの内部においてのみ「個性」として注意を惹くものであり、他人との関係を捨象することで取り出された「本当の自分」なるものには、個性がないわけではないとしても、その個性は、それ自体としては、簡単にかき消されてしまうような弱々しいものであり、自分の周囲に秩序を与えることなど到底不可能であるに違いありません。

 自分の所有物を選り分けるときに「ときめき」を基準とすることをすすめる自己啓発書がありますが、このような「ときめき」は、物象化され捏造された自己が不知不識に社会から押しつけられた偽りの感情であり、むしろ、自分に対する不誠実の反映であるようにも思われるのです。

*1:部屋が片づいている状態が維持されてあることは、自分自身への誠実の帰結ではなく、社会生活における「礼儀正しさ」(civility) の反映として一般に理解されています。そして、私は、この常識の方が妥当であると考えています。

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