※この文章は、「いわゆる『愛犬家』について(前篇)」の続きです。
私が「他人に危害を加えるおそれがあるから」と、係留を求める理由を——おそらく不用意に——説明したところ、「(私に向かって)この子1 は絶対にそんなことしない!(犬に向かって)そうだよな?」「(私に向かって)お前はこの子2 を侮辱するのか!」などと平日の昼間の住宅街の路上で中年の男性に大声で怒鳴られて閉口したこともあります。
このような目に何回か遭ったあと、私は、いわゆる「愛犬家」というのが、ものの見方が歪んだまま固定してしまった「嘆かわしい人々」3 であり、常識にもとづいて説得を試みても無駄であることをようやく悟りました4 。
そして、最近10年くらいのあいだは、「愛犬家」には接近無用と考え、係留されていない犬が現れそうな場所にはできるかぎり近づかないこと、係留されていない犬を公道や公園で見かけたら、すぐに道を変えることを心がけています。
たしかに、犬、特に飼い犬は、飼い主と日常生活の空間を共有し、また、ごく短いあいだであるとしても、見ず知らずの他人と公道や公園などの空間を共有することもあります。ただ、勘違いしてはならないのは、私たちは、他人と共生しているのと同じ意味において犬と「共生」しているわけではないことです。人間的な秩序——それは、「人間にとって都合がよい秩序」を必ずしも意味しません——にもとづいて形作られた社会に犬を勝手に参入させているにすぎないのです。
各都道府県の条例が犬の係留を飼い主に義務づけているのは、前に引用した東京都の条例が明確に述べているように、人間の社会にとって犬が異物だからであり、したがって、「人の生命若しくは身体に危害を加えるおそれ」がつねにあるからです。条例の趣旨を考慮するなら、犬がその飼い主以外の人間と空間を共有しているときには、公園、公道、屋内を問わず、また、エクスプリシットに禁止されているかどうかには関係なく、人間の安全を確保するため、すべての犬は、檻に入れられていないときには、つねに係留されていなければならないはずです。
私は、「犬を常時係留するのは犬の自由を奪うことだ(だから、公道上でも犬を係留すべきではない)」という「愛犬家」の主張をどこかで耳にしたことがあります。
しかし、犬をそれ自体として野生の存在と見なすなら、係留すべきかどうかという問題以前に、犬の都合には関係なく人間の社会の中に犬を勝手に連れ込むことですでに犬の自由は失われていると考えなければなりません。
また、犬がすでにその野生を多分に失い家畜化された存在であるなら、なおのこと、飼い主は、他人に危害を加えないよう、犬を適切に管理する責務を負っているはずです。
私たち1人ひとりがみずからの飼い犬とのあいだで「心が通じ合う」体験を持っているとしても、社会は、全体としては、犬と「共生」しているわけではなく、犬に対し空間と時間の一部を分け与えているにすぎません。犬を係留しないまま公共の空間へと連れ出すことは、犬をそのあるがままの姿において愛することではなく、犬をその飼い主の——「共生」という——勘違いの道連れにすることであり、犬に対し一種の不自然を強いるものであるように私には思われます。
- 私に飛びかかろうとした飼い犬のこと。 [↩]
- 同上。 [↩]
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- 「愛犬家」というのは、「陰謀論」を信じている人々、あるいは、カルトの信者たちと同じく、現代の日本の社会における「一切の合理的な説得が通じないクラスター」の1つであると言うことができます。 [↩]