私は、本をネットで購入するときには、ネット上で見つかる短い感想文の類をできるかぎり見ないようにしています。これは、前に書いたとおりです。
本を手に入れる前に他人による批評を本当に知りたいとき、私は、アマゾンの「レビュー」など読まず、その分野の専門家の意見を探します。
それでも、ときどき、自分がこれから購入するつもりの本について、アマゾンのページを開くとき、他人の感想文が目に入ってしまうことがあります。そして、このような感想文を目にするたびに不思議に感じられることがあります。それは、何らかの怒りに駆られて殴り書きされたとしか思われないようなものが多いことです。短い罵詈雑言や著者への誹謗中傷から、上から目線で書かれた何百文字もの長文の——残念ながら、大抵の場合は見当違いの——批判まで、否定的な感想の多くが怒りの表現であるのはなぜなのか、なぜアマゾンのページに感想を書き込む読者の多くがそれほどまでに怒っているのか、私には見当がつきません。(SNS全体に充満している怒りの一部にすぎないのかも知れません。)本の内容が自分の期待に反していたからなのでしょうか、それとも、自分が正しいと思うことを著者が否定したり無視したりしたからなのでしょうか。いや、ことによると、本の内容がまったく理解できないことに由来する私的な憤慨を文字にして叩きつけているだけなのかも知れません。
「怒れる読者」たちがネット上で暴れ回る光景が私に不思議に感じられるのは、「私なら黙っている」と思うからです。(また、何かを語るとしても、アマゾンの「レビュー」など使いません。)
もちろん、私もまた、ある書物の内容に対して公然とnoを表明することがないわけではありません。しかし、それは、専門家としての自分の立場を明確にすることが必要であるときだけです。
完全に専門外の書物の場合、私が言うことができるのは、「好き/嫌い」あるいは「納得することができる/できない」だけです。その分野のれっきとした専門家の手になる書物であるなら、内容が間違っているとか、重要な論点が脱落しているとか、私は、このような偉そうなことを決して言いません。それは、専門家に失礼だからです。面白ければ「面白い」と言い、つまらなければ、あるいは、納得することができなければ、その場合には、黙って本を閉じる(そして、売るなり捨てるなりする)、これが、自分が専門としない分野の本に対する礼儀であると私は考えています。
「間違っている」「下らない」「期待はずれである」などの感想——これは「レビュー」ではなく、単なる感想です——を、誰から求められたわけでもないのに、わざわざ文字にして各種のウェブサイト(アマゾン、ブクログ、読書メーターなど)で公表すること、そして、このような「感想文」がネットで本を購入することを考える可能的な読者の目に触れることは、文化の健全な再生産にとって脅威となります。
「怒れる読者」の言葉はみな、本質的に「自分語り」であり、自分自身に対する怒りを著者になすりつける試みにすぎません。それにもかかわらず、「怒れる読者」の感想文の氾濫は、書物として形作られる文化、そして、その再生産を阻害しています。「怒れる読者」は、文化にとって好ましい存在ではないように思われます。
しばらく前、映画監督の堤幸彦氏のインタビューを読みました。このインタビューは、「怒れる読者」が文字文化の再生産に歪みを与えるのと同じように、映画の「怒れる観客」もまた、映像における文化の健全な再生産を歪めていることを雄弁に物語っています。
文化的な生産に従事するかぎり、批評を免れることは許されません。しかし、怒りにまかせて否定的な感想を表明することは、単なる野蛮であり、文化の破壊に他なりません。私たちは、文化の受容に関し怒りの制御を学ぶべきときに来ているということなのでしょう。