※この文章は、「『うち』と『よそ』について(前篇)」の続きです。
私自身は、現に会社員ではなく、また、過去に会社員であったこともありません。したがって、自分が帰属する集団を指し示すのに「うちの会社」という表現を使ったことは一度もありません。
ただ、大学の世界において「うちの会社」に対応する「うちの大学」という言葉はよく耳にします*1。ただ、私自身は、自分の本務校を指し示すのに「うちの大学」という言葉を使わないことにしています。(もちろん、「この大学」も使いません。)
私が本務校を「うちの大学」と呼ばないのは、「うち」が「よそ」に対立するものだからです。私は、本務校にそれなりの愛着を抱いているつもりです。しかし、これは、「よその大学」から区別された「うちの大学」に対する愛着ではありません。また、大学は、(ゲゼルシャフトであるかどうかは微妙ですが、)少なくとも家庭のようなゲマインシャフトでもありません。大学の価値とは職場としての価値であり、帰属する者たちの生活全体を支配することは大学の使命ではないはずです。
私の場合、本務校に対する愛着は、そこを職場とするかぎりにおいて必要となる一般的かつ合理的な肯定的な態度を超えるものではなく、適切な距離感がそこには含まれていると信じています。
日本の大学の中には、国公私立に関係なく、教職員に対し、生活の質を損ねるようなレベルにおいて非合理的かつ過剰な忠誠を求めるところがあります。「うちの大学」なる表現は、このような大学の関係者のためのものであるのかも知れません。
もちろん、これは、大学の外部とのあいだ、特に、他の大学とのあいだに高い壁を作ることであり、集団としての健全性を損ねるはずです。
もちろん、「うちの会社」という言葉を無造作に使う会社員の職場がすべて、他の集団とのあいだに高い壁を築き、集団への無際限の忠誠をメンバーに対して要求しているわけではないでしょう。それでも、「うちの会社」という言葉は、みずからの生活が会社の都合によって支配されてもかまわないこと、全面的な忠誠を求められたらこれに応える用意があることを内容とする「信仰告白」であることは間違いありません。「うちの会社」「うちの大学」などの言葉を耳にするたびに、私は、他人事ながら、そこはかとない危うさを感じます。
*1:大学の教師の中には、自分の本務校について「うちの大学」という言葉を使うのをはばかり、これを「うちの会社」という表現にあえて置き換える者がいます。会社員とくらべて大学の教師は少数派であり、したがって、会話が誰に聞かれているかわからない環境で「大学」という表現を使うと、周囲にいる他人の注意を必要以上に惹く危険があると考えるからなのでしょう。とはいえ、大学の専任教員は、全国に15万人もいます。地方中小都市なら話は違いますが、東京や京都では、警察官よりも大学の専任教員の方が多いはずであり、大学に関係する言葉の使用を公共の空間においてすべて伏せるのは、過剰な配慮であるように私には思われます・・・・・・。