誰にとっても、敵を一切作ることなく世の中を渡ることはできません。私が私であって他人ではないことは、私が必ずしも他人の意のままにはならないことを意味します。そして、私が他人の意のままにならず、自由に判断し、行動し、責任を負う存在であるかぎり、万人が私の判断や行動に賛同するとはかぎりません。敵というのは、自由と責任の副産物であると言うことができます。
社会生活の中では、誰もが敵に出会うことを避けられません。しかし、敵を持つことには、積極的な効用を認めることが可能です。
まず、プルタルコスが指摘するように、私は、敵が現れると、これに強い興味を示します。実際、敵というのが打ち勝つべき相手であるかぎり、敵をよく知ることは、味方を知ることよりも優先されなければなりません。寝ても覚めても敵のことばかりを考えることすらあります*1。
また、敵を持つことにより、私は、敵につけ込まれたり打ち負かされたりしないよう、自分のあり方に気を配るようになります。敵の存在が、生活に緊張感を与えるのです。
さらに、敵は、反面教師として役に立ちます。何と言っても、敵というのは、私を不快にさせる存在です。したがって、敵の言動を観察することにより、敵に対しては同じような不快な存在となり、味方には、不快感を与えないよう心がけるはずです。
このように、私の生活の質を維持するためには、敵の存在を欠かすことはできません。敵を持たない者には友もいないと言われる所以です。
とはいえ、少数の敵なら有益でも、周囲が敵ばかりになり、かつ、この状態がながく続くと、私はつねに緊張を強いられ、そして、生活の質は間違いなく損なわれます。見渡すかぎり敵ばかりになったら、同じ場所に踏みとどまり、戦って打ち負かすよりも、「逃げる」方が好ましいのかも知れません。
*1:最近30年くらいのあいだ、日本と韓国の関係は、おおむね険悪なまま推移してきました。平均的な日本人のあいだでは、韓国は好ましい隣国とは見なされてこなかったように思われます。(私が問題にしているのは平均的な傾向にすぎません。)平均的な韓国人の日本観についてもまた、同じことが言えるはずです。しかし、韓国から見た日本は、日本から見た韓国とは異なる役割を担っているようです。すなわち、一方において、日本にとり、韓国は、できることなら関わり合いになりたくない迷惑な存在、距離をとりたい相手であるのに反し、韓国にとり、日本は、打ち勝つ努力においてその対象となる存在、つまり、「敵」の位置を占めているようです。両国の関係は非対称であり、また、関係が非対称であることを両方の国が理解しているせいで、この非対称性がますます強化されるという悪循環に陥っているように思われるのです。