現代の日本において、政治に関するマスメディアの報道は、言葉の広い意味における「政局」を中心とするものとなっています。特に週刊誌、夕刊紙、スポーツ新聞、ワイドショーなどを眺めていると、政治に関係する事柄をすべて政局に還元する意志が感じられることすらあります。このような報道は、もはや政治報道ではなく、単なる「政界」報道にすぎません。
もちろん、政治の世界において誰と誰が親しく、誰と誰が犬猿の仲であるのか、誰と誰のあいだでいつ、どのような取引があったのか、などの情報が完全に無意味であるとは思いません。「政界」の事情がわかったおかげで、政治を正しく理解することができるようになる場合がないわけではないからです。また、政治家の監視は、マスメディアの役割の1つであることも確かです。
とはいえ、政治に関する報道の本来の使命は、政策の内容の説明と評価です。政策が生まれるまでの過程において、どのような政治家たちや官僚たちがどのような思惑もとづき、どのように行動したとしても、このような動きが政策に反映されなければ何の意味もありません。そして、政策にとって大切なのは結果——つまり、国民全体の福祉を長期間にわたって促進するかどうか——だけです。大抵の場合、裏の事情なるものは、結果を評価したり予測したりする作業にとってノイズにしかなりません。政界の事情ばかりを報道する週刊誌、夕刊紙、スポーツ新聞、ワイドショーなどは、政界に対する、ときには高級な、ときには低級な興味を刺戟することにより、政治の意味を評価するのに不適切な観点を国民に提示しているように思われます。
さらに、政界報道は、国民をミスリードするばかりではなく、最近では、政策決定のプロセスに対し不知不識に好ましくない影響を与えているようにも見えます。
あくまでも完全な素人の観察にすぎませんが、政界の事情が繰り返し報道されるとともに、政治家の方もまた、国民が政策を評価するにあたり政界の事情を考慮に入れるはずであることを予期ないし期待しているように感じられることがあります。
しかし、何らかの政策が政界の都合で決まることがありうるとしても、政策には、国民にとり理解可能な合理的な説明が必要であるはずです。
政界の都合で決まった政策を政界の都合で決まった政策として通用させてはならず、政策をそれ自体として評価しなければなりません。そして、国民が政策を正しく評価できるようになるためには、マスメディアは、政策の内容とその予測される結果のみに注意を向けさせること、つまり、政界の事情から区別された政治へと視野を制限することが必要であるように思われるのです。