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塵と埃について

by 清水真木

 自宅の床に掃除機をかけると、床のゴミが吸い取られて掃除機の本体に収まります。私が使っている掃除機は、ダストボックスが透明であり、溜まったゴミが外から見えます。

 掃除を毎日続けているかぎり、少なくとも私の視力では、掃除機を滑らせる床の上にゴミが見つかることは滅多にありません。それでも、10分ほど掃除を続けると、ダストボックスの内部には、握り拳くらいの大きさのゴミのかたまりが生まれます。溜まるのは、「ゴミ」というよりも、「塵(チリ)」あるいは「埃(ホコリ)」という表現がふさわしいサイズの物体のかたまりです。私の目には見えないサイズのゴミから形作られているわけですから、ダストボックスに溜まるゴミの本体は、正確には「埃」のかたまりと呼ばれるべきものなのでしょう。

 自宅にある掃除機の吸引力は、決して強くはありません。それでも、わずか1日のあいだに、圧縮すると握り拳くらいの大きさになる分量の埃が溜まることにはいつも驚きます。

 ところで、塵と埃のあいだにはどのような違いが認められるのでしょうか。もちろん、私たちは誰でも、塵の方が埃よりもいくらか大きく、かつ重いことを知っています。また、箒を使って集めることができるサイズの下限が「塵」であることを知っています。(箒と対になる掃除道具の名が「塵とり」であるのはそのためです。)掃除機が登場する前には、埃とは、主に「ハタキ」を用いて空中に拡散させ、床に落ちたのちに拭き取られることで除去されるものであったに違いありません。

 現在のようなスタイルの家庭用の電気掃除機は、塵と埃を区別せず、両者を無差別に吸い込みます。しかし、以前は、塵の除去と埃の除去は区別され、かつ、塵の方が埃よりも頻繁に除去されていたはずです。(除去されるもののサイズがある限度を超えると、その作業は、「掃除」ではなく「片づけ」と呼ばれるようになるでしょう。)

 そして、たしかに、このような観点から塵と埃を比較するなら、埃は、塵とは異なり、空中を浮遊し、かつ、落下する地点に付着してそれ以上——物理的に除去されないかぎり*1——自然には剥離しません。これは、埃を塵から区別する標識の1つであると言うこともできそうです*2

 また、たとえば「砂埃」や「綿埃」のように、埃は、個体の一つひとつの輪廓を把握することができず、つねにマスとしてしか捉えられないものであるのに対し、「塵も積もれば山となる」という文が典型的に示すように、塵が塵であるためには、数え上げることができる極小の屑であること、つまり、積み上げが可能であることが必要となります。これもまた、「埃」と「塵」という言葉の使用において暗黙のうちに前提とされている了解であるに違いありません。

 とはいえ、塵と埃を質量や体積の点で厳密に区別する試みは、必ずしも生産的ではありません。これは、頭に生えている毛が何本以下なら「ハゲ」と見なすことができるのか、という問題に答えるのと同じような意味で「不毛」な作業となります。

 語の意味の区別は、言葉の使用において想定している典型例(つまり、「塵っぽい塵」と「埃っぽい埃」)にもとづき、この典型例を比較することにおいてのみ意味を持つと言うことができます。

*1:典型的な「汚れ」は化学的に除去することが可能なものであり、この点において埃から区別されます。

*2:典型的な塵は、何かに付着したままとどまることはなく、どこまでも自然に落下して行きます。また、塵が空中を舞うためには、塵の形状や風の有無などについて、いくらか特別な条件が必要となります。

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