しばらく前、井伏鱒二の『厄除け詩集』を手にとりました。
私は、詩、俳句、短歌などの韻文の文学作品をやや苦手としています。散文的な性格であり、省略が多い韻文を理解するのに必要な「ポエジー」が決定的に不足しているのでしょう、詩集を1冊手に入れても、最後まで目を通すことは滅多にありません。(そもそも、詩集というのは、通読されるための書物なのでしょうか??)
ただ、私が手にした講談社文芸文庫版の『厄除け詩集』は、本文が100ページしかなく、私としては珍しいことに、最後まで目を通しました。そして、気づいたことが1つあります。それは、井伏自身の詩も、また、この詩集に収められた「訳詩」も、その多くが「望郷」をテーマとすることです。
わが国では、昔から、「望郷」をテーマとするおびただしい数の文学作品が産み出されてきました。これは、古典的なテーマの1つであり、井伏鱒二の詩というのは、この意味において、(そのいくらかふざけた外見に反し、)日本および中国の文学的な伝統の延長上に位置を占めるオーソドックスな作品群であると言うことができます。
とはいえ、故郷を持たない私のような者には、故郷を離れて暮らす人の気持ちが直観的にはわかりません。(さすがに、「それほど故郷が好きなら、帰ればいいじゃないか」とまでは言いませんが。)「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」などと言われても、私は困惑を覚えます。
ただ、私のこのような感想は、次のような反論を惹き起こすかも知れません。すなわち、「『故郷がない』者には『望郷』のテーマは理解不可能であると言うが、故郷がないなどということはありえない」「自分が生まれ育った場所から一度も離れたことがない者にとっては、今いる場所が故郷なのではないのか」・・・・・・。
それでは、ある場所が言葉のごく普通の意味における「故郷」であるためには、どのような条件が必要なのでしょうか。しかし、故郷というのは、三次元空間の内部における特定の場所ではなく、むしろ、本質的には地縁や血縁によって形作られた人間関係を意味するように思われます。換言すれば、「望郷」というのは、その自然や人工の物理的な環境を愛着を込めて想起することであるというよりも、このような物理的な環境と一体となった人間的な環境なのです。
私は、今、自分が生まれ育った場所で暮らしています。しかし、ここは、上に述べたような意味における故郷の条件を満たしません。なぜなら、場所は変化しないとしても、物理的な環境は大きく変化し、そして、人間的な環境もまた失われつつあるからです。あと10年も経てば、私の自宅の周辺に暮らすのは、完全に見ず知らずの人たちばかりとなってしまうでしょう。
故郷が故郷であるためには、ある程度以上スタティックな物理的、人間的な環境を前提とします。私の自宅がある杉並区は、人口の流動性が高く、毎年1割弱の住民が入れ替わってしまいます。そして、このような地域は、どれほどながく暮らしても故郷とはなりえないように思われるのです。