※この文章は、「『専門バカ』の奈落について(その1)」および「『専門バカ』の奈落について(その2)」の続きです。
研究活動において本を読まなくなった研究者たち、また、読書によって裨益された経験に乏しい研究者たちが、どのような動機によるものであるとしても、その他の機会に——自分の専門と関係があるものであるかどうかにかかわらず——本を習慣的に手にとり、経験の拡張を試みるなど、あまり期待することができないように思われます。
当然、みずからは本を手にとらない研究者たち、自分の専門分野の外部へのまなざしを欠いた研究者たちが、たとえば大学生に対し本を読むことの大切さを説いても——何をどのように「説く」のか、もはや見当がつきませんが——自分が実践してこなかったことを他人に求めるその言葉が説得力を帯びるはずがありません。
それでも、少なくとも、前に述べたような研究の体制の内部において研究活動が完結するかぎりにおいて、読書の習慣を一切持たないことには、さしあたり何の不都合もありません。私は、「専門バカ」の「バカ」の程度に関し、「底が抜けた」という表現を用いました。昔の「専門バカ」が何らかの「欠落」を本質とするものであったのに対し、現在の「専門バカ」は、、「専門家」であることを徹底させることが原因で生まれる「専門バカ」であり、一種の「開き直り」として理解されるのが適当であるように思われます。
研究活動において本を読まず、本を読むことに特段の意義を認めない大学教員は、今後、その数をさらに増やして行くはずです。
幸いなことに、現在はまだ、日本でも外国でも、人文科学の多くの分野では、研究の成果は、著書として公刊されることにより最終的に業績と認められるのが普通です。言い換えるなら、人文科学では、「世に問う」という表現がまだ実質的な意味を失っていません。人文科学は、専門家と知的な読者公衆のあいだに肯定的な相互作用がかろうじて認められる最後の領域であると言うことができます。
そもそも、書物というのは、専門家のあいだのコミュニケーションのためだけに執筆された学術論文とは決定的に異なる性格を具えています。すなわち、すべての書物は、学術雑誌に投稿された論文*1とは異なり、公刊されたものであるかぎり、つねに万人に開かれているのです*2。たとえば、『日本大蔵経』は、日本の仏教史に立ち入った関心と知識を持つ読者が手にとることを想定して編集、刊行された特殊な出版物です。私自身、このような出版物があることは承知していますが、実際に手にとったことはありません。しかし、形式的には、出版者が想定しないような読者、たとえば小学生でも外国出身の関取でも、もちろん私でも、この書物を手にとり、その理解を試みることが許されています。書物に関するかぎり、著者にも、出版者にも、書店にも、読者を指定する権利はありません。人文科学は、そして、人文知とは、このような環境を俟って初めて成立しうるものであるに違いありません。
書物を繙くことは、社会が共有すべき知の空間に参入することで経験を拡張する行為に他なりません。特に、研究者にとっては、みずからが知的生産の巨大な複雑な分業体制のごく小さな一片を担っているに過ぎないことを自覚しながら全体へのまなざしを獲得するための努力を意味します。
「本を読まない大学教員」の問題とは、教員の(無)能力や(無)関心の問題であるというよりも、むしろ、本質的には、知的生産と文化の関係の問題として受け止められるべきものなのでしょう。
*1:最近は、「オープンアクセス」、つまり、誰でも無償で読むことができる学術論文が少しずつその数を増やしていますが、それでも、欧米の主な電子ジャーナルに掲載される論文の大半は有償です。いずれかの研究機関に所属している場合、その対価——論文1本あたり数千円もするのが普通です——は基本的に所属機関が負担しますが、そうでなければ、これを自費で購わなければなりません。研究機関に所属しない者が欧米の電子ジャーナルに掲載された最新の論文を読むことは事実上不可能なのです。
*2:これは、権利上、「私だけの書物」なるものが存在しえないことを意味します。書物というのは、一方において、これを読む行為との関係ではかぎりなく私的なもの、個人的なものでありながら、他方において、「ブツ」としての書物は、その固有性を最初から剥奪され、社会の共有財産として流通させられるのです。公共的であるとともに私的でもあるというこの二重の性格から生まれる緊張は、読書の経験に固有のものであると言うことができます。