※この文章は、「人生において本当に大切なことを識別する手がかりの1つについて(前篇)」の続きです。
この問いに対する答えがyesであるなら、私の目の前にある何ものかは、私にとっては、除去すべき単なる障害にすぎません。というのも、一定の成果を挙げるのに費やされる時間が少ないほどよいとは、「せずに済むならしたくない」の婉曲表現だからです。上記の問いに対しyesと答えることができるようなものは、誰が何と言おうと、私にとり、それ自体としては無価値であり、できるかぎり効率的に処理すべきもの、あるいは、そもそも「せずに済ませる」途を探すべきものなのです。
これに対し、あるタイプの「しなければならないこと」については、上記の問いに対する答えはnoとなります。答えがnoであるのは、このようなタイプの「しなければならないこと」が、他の何かを実現するための手段ではなく、むしろ、それ自体が目的だからです。言い換えるなら、このタイプの「しなければならないこと」は、一定の成果を得て次のステップに進むために手早く処理する必要を免れているのです。たとえば、ゲームを趣味とする人は、「ゲームで遊ぶ時間は少なければ少ないほどよい」などとは決して考えません。反対に、ゲームに対し1日のできるかぎりたくさんの時間を割り当てるために努力するはずです。このような人にとっては、ゲームは何かの手段ではなく、ゲームで過ごす時間がそれ自体として目的だからです。また、プロの作家にとり、執筆は雑用ではありません。作家が作品を仕上げるための時間を節約することは決してないでしょう。ボランティア活動やNPOの事業に関与すること意義を認める人は少なくありませんが、このような人々は、自分が従事する活動や事業を決して雑用とは考えないはずです。
子育てについてもまた、事情は同じです。
以前、次のような文章を書きました。
催眠を活用して育児を効率化する試みは、育児が効率的に処理すべきタスクの寄せ集めにすぎないという了解を前提とします。しかし、育児は雑用の山であり、人生において可能なかぎり速やかに除去されるべき障害なのでしょうか。
たしかに、育児の中に雑用しか認めない人々がいないわけでないことを私も知っています。けれども、この女性がその1人であり、子育てを厄介ごととして捉えているのなら、この女性に3人も子どもがいることは理解困難な事実となります。これが、私が「催眠子育て」に疑問を抱いた理由です。
子育てというのは、理想としては、効率的に片づけられるべき雑用の山ではなく、それ自体が目的であるような何ものかであるように思われるのです。(後篇に続く)