このままでは禍根を残す
数日前、私は、次のような写真をツイッターに投稿しました。
中道寺は、環状八号線の川南交差点からすぐのところにある日蓮宗の寺院です。私が通っていた小学校と自宅の中間にあり、私にとっては子どものころから馴染みのある場所です。また、今でも、徒歩で荻窪駅とのあいだを往復するときには、境内の裏の坂道を通ります。駿河台で1限の授業がある日は、午前6時少し過ぎに境内の裏の坂を通ります。そのときには、中道寺が「自粛」することになった「起床太鼓」の音をいつも耳にしていました。
とはいえ、私と中道寺のあいだに特別な縁があるわけではありません。自宅から5分くらいのところにある寺であり、普段の生活の中で境内の横を通ること、毎年大晦日の夜に除夜の鐘を見物に行くことくらいの関係にすぎません。
したがって、「自粛」の決定にいたるまでに、太鼓の音に苦情を申し立てた住民とお寺とのあいだでどのような話し合いがあったのか、私はまったく承知していません。しかし、クレームに対して中道寺が一方的に引き下がったのであるとするなら、この態度は、今後に禍根を残すと私は考えます。
風景の一部としての中道寺
中道寺は、この地域ではもっとも古くからある宗教施設です。荻窪のランドマークの1つであるとまでは言えないかも知れませんし、観光名所でもありませんが、それでも、地域の風景とアイデンティティを何百年にもわたって形作ってきた施設であることは間違いありません。
なお、この場合、「風景とアイデンティティを形作る」とは、次のようなことを意味します。すなわち、この寺院は、長期間——少なくとも過去300年以上——にわたり、近隣の住民の生活を、その環境の物理的構成要素の1つとして規定してきました。中道寺の周囲の住宅地は、門前町として形成されてきたわけではないとしても、少なくとも中道寺の「門前」である点において他から区別されうるものだからです。
しかし、寺院の存在は、住民の生活を形作る一要素であるばかりではなく、寺院が1つの要素となって形作られた枠組の内部において、今度は住民の側が、寺院の意義や役割を規定しなおし、そして、寺院がふたたび住民の生活の枠組の一部として新たな意味を獲得する・・・・・・、たがいのあり方を規定するこのような相互作用の循環がある程度以上の期間において認められること、これが「風景とアイデンティティを形作る」ことに他なりません。風景の形成には、このような相互作用が不可欠です。
解決の方向(その1)
地域と一体となったこのような施設の場合、そこから発せられる音を住民の誰かが「うるさい」と感じるのであれば、さしあたり2つの対処の仕方があると思います。
1つは、苦情を申し立てた住民に別の場所に引っ越してもらうことです。
中道寺の「起床太鼓」には——私は上記の掲示で初めて知りましたが——相当に長い歴史があるようです。そして、この慣行に長い歴史があるということは、2021年現在、この「起床太鼓」が聞こえる範囲に暮らす住民の中に、慣行が生まれる前から暮らしていた者が1人もいないことを意味します。言い換えるなら、中道寺の周辺で生活している住民は、全員が例外なく、そこで暮らし始めたときには、午前6時に「起床太鼓」が必ず鳴ることをあらかじめ知っていたはずです。「起床太鼓」は、上で私が述べたような意味における風景の一部です。自分がそこで生活を始める前から続いてきた慣行——ということは、過去の住民たちにもこれが受け容れられていたことを意味します——を自分の個人的な都合でやめさせるなど、筋が通らないことは明らかでしょう。
「起床太鼓」がうるさいとしても、慣行が始まってから暮らし始めた住民にはそもそも苦情を申し立てる権利はない、音がうるさいなら、これが聞こえないところに引っ越せばよい、これが解決策の1つです。
解決の方向(その2)
もちろん、これは、単純な解決策ではありますが、それとともに、乱暴でもあります。少なくとも、最初に試みられるものではないでしょう。
第2の解決策は、寺院が近隣の住民たちに広く呼びかけて集会のようなものを繰り返し開き、解決を模索することです。
「起床太鼓」がすでに風景の一部となっているかぎり、それは、寺院のものであるばかりではなく、地域のものでもあります。「起床太鼓」の存続/廃止は、寺院のあり方ばかりではなく、地域の生活の枠組、あるいは「土地柄」のようなものに少なからぬ影響を与えます。除夜の鐘が廃止されるようなことになれば、その影響は、さらに大きなものとなるに違いありません。というのも、私の知るかぎり、「起床太鼓」を聴くために毎朝わざわざ寺を訪れる人はいませんが、大晦日の夜には、除夜の鐘を聴いたり撞いたりするために自転車や自動車で乗りつける家族連れが多く、大晦日には、周辺の交通量が若干増えるからです。
このかぎりにおいて、「起床太鼓」の「自粛」は、近隣のすべての住民——苦情を申し立てた住民だけではありません——にとり「自分ごと」として受け止めることが必要なものなのです。
一方において、「起床太鼓」が生活の質を低下させていると考える住民がいるなら、生活の質の低下がどのようなものであるのかを十分に聴き取り、その上で、地域としての「落としどころ」を探すことは周辺の住民の責務でもあるように思われます。
当然、他方において、「起床太鼓」について苦情を申し立てた住民は、近隣の住民に対して自分の立場をオープンな場で丁寧に説明し、これを地域全体の問題として検討するよう求めるとともに、地域全体に影響を与える措置について住民たちの同意を求める責任があるでしょう。
たしかに、ある行事が長期間にわたって維持されてきたからと言って、これがあらゆる苦情に抗して続けられなければならないわけではありません。私は、古いものは何が何でも残すべきであるとは考えません。世の中には、「ただ古いだけのもの」が「古い」という理由のみによって珍重される傾向がありますが、私はこのような傾向には同意しません。
それでも、長期間にわたって維持されてきた慣行——今回の場合は寺院における勤行——には、長期間にわたって維持されてきた十分な理由があるのが普通であり、これを廃止するのなら、関係者のあいだでの合意形成を省略することは許されないように思われるのです。