私は、LGBTをめぐる諸問題には全体として大した関心を持っていません。特別な意見もありません。その上で、しかし、性的マイノリティに対する差別を禁止する法律を——その内容はともかく——制定することにそれ自体として反対する人がいるということに、私は少なからぬ驚きを覚えます。
https://www.toben.or.jp/know/iinkai/seibyoudou/column/post_47.html
深刻なのは——法律の具体的な内容をめぐる評価は今は措きます——法律の制定に反対する人々の多くが、報道を見るかぎり、「わが国には性的マイノリティへの差別はない」という認識にもとづいて法律が不要であることを主張しているわけではない、という点です。つまり、彼ら/彼女らは、差別の事実そのものは受け容れ、その上で、法律が不要であることを主張しているのです。言い換えるなら、性的マイノリティに対する差別が正当であると考えていることになります。
性的マイノリティというのが、この問題に関心がない私のような(少なくともこの点に関しては)平均的な日本人の目にノイジー・マイノリティと映ることは事実です。自分の権利ばかり主張する面倒くさい人たちに見えます。
しかし、たとえノイジー・マイノリティと思われようと、面倒くさがられようとも、自分のあり方についてその正当性を社会に向かって訴えるのには、相応のやむをえざる事情があるに違いないと想定し、このような人々を——愛する必要はないとしても——公正な仕方で遇することは、民主主義社会に生きる者の務めであると私は考えています。
性的マイノリティをめぐる諸問題に関心があるかどうかには関係なく、万人が承知していなければならない決定的な事実が1つあります。それは、性的マイノリティが、性的マイノリティというあり方を自分の好みで選びとっているわけではないということです。性的マイノリティは、「好きで『性的マイノリティ』をやっている」わけではありません。「性的マジョリティ」と「性的マイノリティ」という2つの選択肢から「性的マイノリティ」の方が選ばれたわけではないのです。それは、性的マジョリティの中に、性的マジョリティであることを自分で決めた者が一人もいないことを想起するなら、ただちに明らかになることでしょう。
したがって、性的マイノリティであることは理由を必要としません。というよりも、理由はありません。また、性的マイノリティは、性的マイノリティであることに責任を負うこともできません。それは、私が男性であることに理由がなく、男性であることに責任を負えないのと同じです。(この点において、性的マイノリティ差別の問題は、選択的夫婦別姓の問題とは性質を決定的に異にします。)
現在の日本では、性別による差別は、憲法および各種の法律によって禁止されています。性別というものが、各人の好みや判断によって選びとられたものではないからです。そして、女性が女性であるという理由で差別されてはならないのと同じように、性的マイノリティに対する差別を容認するなど、ありうべからざることであるように私には思われるのです。(もちろん、法案の内容が妥当であるかどうかは、また別の問題です。)