私は、毎日、「普通」に食事することのありがたさを感じています。
世界には、十分な食べ物を手に入れることができず、飢餓と隣り合わせの生活を余儀なくされている人々がいます。その数、つまり、絶対的貧困に実際に陥っている人口は、平均的な日本人が思い描くほど多くはないはずですが、それでも、食糧が全世界に満遍なく行き渡っているわけではないことは事実です。
しかし、私には想像力が不足しているのでしょう、食事のたびに私の心に浮かぶのは、自分が貧困と飢餓を免れていることの幸運ではありません。私が想起するのは、健康上の理由でものを食べることができない人々のことです。何かを口に放り込み、咀嚼し、嚥下する・・・・・・、私たちの多くが当たり前のように毎日繰り返しているこの動作、つまり、ものを味わうことは、しかし、口腔や咽頭に障害を持つ人々には困難である場合が少なくありません。私は、これを大変にいたましいことと感じています。
いわゆる「健常者」としての生活を阻碍する病気や障害は少なくありませんが、私が知る範囲では、「食べられない」状態を作り出す病気や障害ほど生活の質を損ねるものはないように思われます。
たしかに、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったり、歩けなくなったりすることは、それ自体としては途方もない不幸であり、生活の質をいじちるしく毀損するに違いありません。それでも、これらの障碍については、十分ではないとしても、これらを迂回する手段が用意されています。目が見えなければ聴覚に頼ることができます。耳が聞こえなければ視覚である程度はこれを代用することが可能です。触覚もまた、視覚や聴覚を部分的に代替します。
これに反し、食事には代わりとなる手段がありません。食事が栄養の補給の手段以上の何ものでもないのなら、たとえば点滴や胃瘻でこれに代えることができないわけではないように見えます。しかし、実際には、食事は単なる栄養を摂取にとどまるものではなく、身体の健康を支える運動であるとともに、他人とコミュニケーションでもあります。食事というのは、多様な側面を持つ複雑な活動であり、食事ができなくなることは、日常生活の広い範囲に好ましくない影響を与えることになります。普通に食事することができない人々の苦痛は計り知れないほど大きいに違いありません。
食事することは、人間の人間らしい生活において特別な位置を占める活動であり、言葉のもっとも狭い意味における「行為」を形作る人間的なふるまいであると私は考えています。そして、人間の生活において「食べる」ことが占める特権的な位置を考慮するなら、食事を困難するような病気や障害は、考えうるかぎりもっともいたましいものであり、その治療法は最優先で開発されるべきものであるように思われるのです。