※この文章は、「観光地の価値について(前篇)」の続きです。
ある土地が観光地として他から区別されて注意を惹くようになった事情は、土地によりまちまちです。わが国なら京都や伊勢、ヨーロッパならイタリアのヴェネチアやフィレンツェ、イギリスの湖水地方のように、鉄道による大規模な輸送が始まる前からそれなりに大衆化された観光地であったところもあれば、辿りつくのにいくらかの時間とカネを必要とする秘境のような土地もあります。
それでも、ある観光地や名所旧跡に認められた価値というのは、そこにあまり人がいない状態、誰かがその土地を訪れたとき、特定の空間や眺めを「ひとりじめ」できることを前提として与えられた価値であることは確かであるように思われます。つまり、観光地が観光地としての本来の姿を現すのは、これが閑散としているかぎりにおいてなのです。
ローマのフォロ・ロマーノが訪れるに値する観光地であると一般に認められているとするなら、それは、観光客で充満した空間が美しいからではもちろんありません。誰もいない、あるいは、誰からも見向きもされずうち捨てられた完全な廃墟に近世の知識人たちが特殊な美的価値を認めたからこそ、フォロ・ロマーノは観光地となったのです。18世紀後半、グランド・ツアーの途上でローマを訪れたエドワード・ギボンが眺めたはずのフォロ・ロマーノは、このような理想の観光地であったに違いありません。
おびただしい数の観光客で埋め尽くされた観光地は、行列を作ってアクセスし、そして、写真を撮影して足早に立ち去ることを求められるような場所は、「観光客がいなければ観光地として評価することが可能であるはずの空間」であるにすぎず、言葉の本来の意味における「観光地」ではないと考えなければなりません。オーバーツーリズムという現象を形作る観光の一つひとつは、観光というよりも、むしろ、本質的には、その土地を訪れる者がその本当の姿を鑑賞することを妨げる試みであり、「観光の妨害」に他なりません。
観光の名のもとでの膨大な旅行者の移動が続き、観光地が観光客によって埋め尽くされているかぎり、「観光旅行」なるものは権利上不可能なのです。